【第12回】コロムビア制作部後期の頃⑫「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.3.28

「美空ひばり全国葬」TBSの協力と独占放送

〝今日の我に、明日は勝つ〟ひばりさんの有名な座右の銘である。

多くの困難に打ち勝ってきたひばりさんだからこそ言える名言だと思う。
ひばりさんは我々スタッフに事ある毎に
「私は歌だけは誰にも負けたくないし、絶対負けないよう日々精進努力する。毎日が勝負よ。だからみんなも誰にも負けないいい仕事をしてよね」
自分に厳しかったが我々の仕事に対しても厳しかった。
余談になるが、毎年年末が近くなるとひばりさんにNHKから紅白歌合戦への出演依頼がある。私はその都度、ひばりさんに出演要請をしていたが、開口一番
「私の戦う白組の相手は誰?」
と聞いてくる。
「昔と違って今の紅白はトータル得点で競う番組ですよ」
「でも歌合戦なんでしょ。戦う相手が見えないとつまらないな…」
そんな会話をこの時期になるとしていた。
兎に角、戦って勝って一番になる。その為に人知れず努力する人だった。
東京ドームコンサートのように、歌謡界初とか日本初などパイオニア精神が旺盛で我々スタッフも仕事の中で常にそのことを意識していた。

当時これからの普及が話題になっていた衛星放送をひばりさんは既に狙っていた。
「早く元気になって、衛星放送で楽しいイベントをやりたいわね」
私は励ます思いも込め
「絶対やりましょう。面白い企画を考えます」
と口約束をしていたが、約束を果たさぬうちにひばりさんは逝ってしまった。
私はその約束を全国葬で果たそうと思った。
TBSからの申し出は非常にありがたかったが、衛星放送のことだけは曖昧にしたくなかった。ひばりさんとの約束の楽しいイベントでは決してないが、哀しみも楽しみの一つに思えるようなお別れ会にしたかった。

この企画はやはり駄目か…。諦めかけていた時、弟子丸部長から電話が入った。
「TBSでも衛星の試験放送が始まり上手くいったことがわかった。うちでもやれます。境さんすぐ会いませんか?」
私は弟子丸部長と会った。
「TBSをキーにJNNネット総力で中継を入れながら生で放送したい。会場作りの予算もクリアできる。報道のTBSの面子に掛けても絶対成功させます!」
弟子丸部長は力強くやる気満々で私にそう言った。頼もしかった。TBSからの条件はただ一つ。ニュース枠以外、TBS一社の独占放送だった。私は全国葬を実現させたい一心で前後のことも考えず、その場で弟子丸部長と握手をした。
果たせなかったひばりさんとの約束が全国葬という形で動き出した。翌日のスポーツ新聞は一面トップでこの〝美空ひばりお別れ会TBS独占放送〟を大きく扱った。

TBS以外のテレビ各社から猛抗議が来た。
「うちでもやれる。なぜTBSの独占なのか」
「結婚式の独占放送はあったが葬式の独占放送は聞いたことがない」
「天下の美空ひばりは全民放で手分けして行うべきだ」
など抗議は続いた。ついにコロムビアの社長宛に某民放から内容証明付きの抗議の手紙が届いた。
この期に及んで会社幹部から全国葬もTBS独占放送も中止するよう指示があったがもう手遅れだ。私は森啓氏と別室に籠り、着々と準備を進めていた。

森氏は度胸もあり、仕事も早い。その上アイデアマンでもあった。忌号の〝林檎忌麦の日〟も祭壇のデザインもお別れ会当日の進行も彼が決めた。
私は主に警察、消防から花屋に至るまでの対外折衝や問題が起きた時の対応、VIPやタレントのケアなどに追われた。
ふたりとも徹夜も多くなっていた。マスコミの取材を逃れ準備に集中出来るよう別室に籠っていたが、心身ともに疲れ果てフラフラだった。
社内ではテレビ担当の宣伝マンがTBSを除く民放テレビ各社から出入りを刺し止められていた。私達は限界を遥かに超えた仕事に追い込まれていた。
そんな私達を、バーニングプロダクションでテレビ局担当をしていた森久氏がバイクで度々訪ねてきては栄養ドリンクの差し入れをしてくれた。この場面での彼の心優しさに泣けた。

平成元年七月二十二日。ついにその日の朝を迎えた。私は天国にいるひばりさんに、会が無事に終わることを祈った。
夜明け前にもかかわらず、多くのファンの人達が訪れ、青山墓地の方まで長い列を作っていた。
用心の為、会場内にはテントの医務室を設けていた。真夏の東京青山。熱中症が心配だ。気温が気になりだした。
また、駐車場に駐車できる車の台数も限られている。超の付く弔問客の車の乗り入れ以外は青山絵画館の駐車場を利用していただき、そこから青山葬儀所までバスでピストン輸送をした。
結果、青山葬儀所に訪れた四万人と合わせると全国で十万人の人達がひばりさんとのお別れが出来た。

私はこの時の経験をその後業界での冠婚葬祭を手伝う際に生かしている。
〝表の小西に裏の境〟と言う人もいるようだ。

---つづく

 

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

関連キーワード

この特集の別の記事を読む