【第42回】流浪のサラリーマン時代 営業所編⑪「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.5.9

再び営業最前線に復帰  ぴんから兄弟『女のみち』が大ヒット

昭和四十六年、私は川崎工場の商品部レコード管理課長になった。三十四歳の春の昇格だった。

大勢の部下の中には都市対抗野球で活躍した川崎コロムビアのメンバーも多く含まれていた。

その頃、日立の指導のもと経営の合理化が進められ、主に家電部門の縮小、廃止などによる余剰人員の整理が始まった。

これに労働組合が反発。コロムビア労組に加え、電機労連からの応援もあり大争議になった。ストも長期化していた。

私は身分は組合員でありながら職籍は課長だったため、ストには参加出来ず非難を浴びた。

ストの時の保安要員として工場への入門は大変でピケの中を強行突破しなければならなかった。

押し合いへし合いで洋服はいつもボロボロ、ボタンは毎日のように飛んで失くなっていたが、それ以上に辛い仕事が毎日続いた。

家電の製造ラインからレコード部門へ配置転換されて来た人達を対象に退職勧告をする辛い辛い仕事だった。

工場内の各部門にノルマのようものがあった。私は午前中に二、三人の人と面談した。

勧告を受ける人は年配者が多く、家族があり、そして様々な事情を抱えていた。

私はそれでも

「辞めて頂けませんか」

と言い続けた。

会社再建の為とは言え、非情な仕事に精神的に参った。

私は退職勧告する人達の理解を少しでも得るため、午後はその人達の再就職先を探しに横浜、川崎、品川の職安を廻る日々が続いた。

ノンプロの野球部も解散になり、野球を続ける選手の移籍先を探しに永井監督に同行したのもこの頃だった。

幸いにも京浜地区には都市対抗野球の常連チーム、東芝、日石、トキコなどがあり、スムーズに移籍できた。プロ野球、巨人、ロッテにも三人移った。

昭和四十七年、上司の隈本部長が営業部長に異動された。私は直訴した。

「部長、私にもう一度営業の仕事をやらせて頂けませんか!」

夢半ばで終わっていた営業への希望を再び出した。

営業部への異動は思っていたより早く決まった。私はこの年、関東レコード営業所次長として転出した。

当時の職場は神田小川町にあって、北関東六県を担当していた。新幹線の走っていないこの時代長野、新潟、栃木への訪店は苦労が多かった。

日立家電から来た当時の正坊地社長は販売に力を注いだ。

中でもコロムビア若羽会のメンバーや各地のレコード商業組合の幹部の人達と積極的に交流を強めて行った。酒、ゴルフ、麻雀など遊びに関しては歴代社長の中で正坊地社長は群を抜いていた。

私が担当していた北関東の植木支部長(前橋三界堂社長)とは特に親しく商売の垣根を越えて遊んでいた。

正坊地社長は植木支部長のことを

「オイ!添え木」

と呼び捨て、我々をハラハラさせていた。

今と違って、音楽はレコード店で買うのが当たり前の時代、商売の主導権は販売店にあった。

レコードを売って頂いていたそんな商習慣が強かった頃、ぴんから兄弟の『女のみち』が出た。

姫路のP盤だったと聞いていたが、新人らしい初々しさは全く無く、最初からオジサンの雰囲気が漂っていた。

これが爆発的に売れた。生産が追いつかず割当配給になった。販売店は一枚でも多く手に入れるため神田小川町の営業所まで、土地土地の手土産を持って押しかけて来た。

業界用語で〝客待ち〟と言っていたが、配達を待てないこの客待ちが増えた。『女のみち』は短期間に二百万枚を越える大ヒットになった。

この時だけは日頃の〝売って頂いてる〟からヒット商品を〝分けてあげている〟という気分をほんの少し味わった。

昭和四十八年、大規模小売店舗法が施行され、郊外に大型ショッピングセンターが出来始めると買い物客の流れは大きく様変わりした。〝お買い物は車で郊外へ…〟の時代に入って行った。

北関東では、高崎のサカイさんが郊外に広い駐車場のある店を開店して話題になった。

駅前商店街のレコード屋さんに時代の波が押し寄せて来た。

新星堂をはじめ、地方の大型店が競って郊外のSC(ショッピングセンター)に出店を始めた。

またこの頃、大都市では増改築の進むステーションビルへの出店も始まっていた。

関東では総武線の駅ビルに鉄道弘済会がヤンレイの店名で出店し、地元レコード商組合と激しく揉めたのを覚えている。

SC出店で販売網を拡大する大型チェーン店と、それを迎え撃つ地元商店街のレコード店とのバトルはなかなか調和が難しく苦労した。

販売業界は大きな課題に直面していた。我々が久しく慣れ親しんだレコード店は専門店からヒット依存の量販店に大きく舵を切って行くことになるのか…。私は一抹の寂しさを覚えた。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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