「細川たかし『矢切の渡し』ヒットの裏で…」  周防社長と長山洋子編②【第66回】

2019.6.12

細川たかし『矢切の渡し』ヒットの裏で…

私が周防社長を強く意識するようになった切っ掛けはコロムビア時代に遡る。昭和五十八年細川たかしの『矢切の渡し』が順調に売り上げを伸ばしヒット街道を走り出した頃、スポーツ紙一紙に突然、本当に突然

〝細川たかしコロムビアから移籍〟

と大見出しの記事が出た。

全く寝耳に水で私を含め、社内に衝撃が走った。

当時は私の上司の根本宣伝本部長が直接バーニングの窓口になっていて、周防社長とは深いお付き合いがあり、二人の間には誰も入って行けなかった。

根本さんは横浜の大資産家の息子で毎夜のように周防社長と銀座で豪遊する仲だった。

そのため、目と鼻の先にあったバーニングだったが私はほとんど接触はなく、まして周防社長とは会話も直接電話もしたことがなかった。

「根本さん!この新聞記事はどういうことですか!」

「見ての通りだ!」

「それは無いでしょ!本当の理由は何んですか?」

「ちあきの矢切だよ。もう決まったことだ」

『矢切の渡し』はちあきなおみがコロムビア時代収録した楽曲だったが、タレント契約も切れレコードは既に製造中止になっていた。周防社長はそこに目を付け、細川たかしでカバーしこれが当たった。

細川のヒットで調子に乗ったコロムビアでは細川の『矢切の渡し』に便乗して、ちあき盤を再発売したがこのやり方に周防社長は激怒した。そして根本本部長と大喧嘩になった。

「根本さん!細川たかしはコロムビア生え抜きのタレントですよ。社員の誇りです。この話、取り消してください」

「もうダメだ!俺は周防さんと喧嘩して話せる状況ではない。どうしても納得しないならお前が行って社長に談判して来い」

「それは無理ですよ。私は周防社長とお会いして話したことなど一度もないし、私が行っても門前払いですよ」

「なら諦めろ!おまえ以外に誰がいる?」

私は腹を決めて電話で面会を申し出た。取り次いでもらった電話機を通して社長の声は聴こえるが、私の電話には出てもらえず数分が過ぎてやっと

「はい」

「コロムビアの境と申しますが、社長にお会いしてお願いしたいことがあります。会っていただけませんか?」

「…」

「細川たかしの件でお願いです」

「…」

「すぐ伺います」

「来ても会わないよ。たかしのことならダメだよ」

ガチャッと電話が切れた。

だが、社長は事務所に居る。走れば一分のところに社長は居る!

私は小走りでバーニングに行った。社長は居たが顔も合わせてくれない。

仕方なく私は近くの空いた席でジーッと待った。私にとって千秋の時に思えた。

もう限界かと思った頃、社長と初めて目が合った。

「たかしの件なら根本と話は終わっている。それ以外話すことは何もない」

「社長、ちょっと待って下さい。コロムビアは根本一人の会社ではないんです。レコード事業部だけでも千人の社員がいます。本社始め川崎工場や全国の営業所のセールスマンなど全社員で細川たかしをデビュー以来一生懸命売らせて頂きました。その人達に何と説明をすればいいんですか?」

「…」

「二人の喧嘩で移籍が決まったとは言えません」

「…」

「確かにちあきの再発はコロムビアの助平根性以外、何の意図もありません。発売を中止します」

「…」

「お願いします。細川たかしを我々の手に戻して下さい」

いきなり社長が大きな声を出した。

「オイ!会社の印鑑をすぐ持って来い!」

一瞬、私はそれが何を意味するのかわからなかったが、

「これ好きなだけ押しとけ!」

私の目の前に会社の印鑑を置いた。

私はまた小走りでコロムビアに契約書を取りに戻り、バーニングに引き返した。

「社長!契約期間は三年の自動延長でよろしいですか?」

「…」

「印鑑お借りします」

業界では剛腕で怖い人だと言われている周防社長だったが私はこの時初めて社長は人の誠意を受け止める広い心の持ち主だと思った。

この時を境に私は根本さんに代りバーニング担当になった。

一方周防社長は自ら先頭に立ち、細川たかしの『矢切の渡し』のプロモーションに邁進した。

結果ミリオンヒットになり『北酒場』に続き、二年連続レコード大賞作品になった。

打てば倍になって返ってくる。叫べば必ず山彦のように返ってくる。人情に厚い社長を段々好きになり、最も尊敬する人になった。

業界の中で貸しは作っても借りは絶対作らない周防社長のエピソードを次週で紹介したい。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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