【第4回】コロムビア制作部後期の頃④「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」
美空ひばり 母の顔
今でも“若”と呼ばせて頂いている。
㈱ひばりプロダクション社長加藤和也氏のことを私は彼がヨチヨチ歩きの子供の頃からそう呼びかけていた。特に深い意味は無く、ひばりさんの“お嬢さん”に対して、息子さんは若大将でどうだろうかと考えただけである。
ひばりさんと親しい大人達は和也さんのことをカー君と呼んでいた。私の若という呼び方は変だと注意してくれる人もいたが、もう慣れていて他の呼び方が出来なくなっていた。
あれは昭和も終りの頃だったと思う。その若のことで相談したいとひばりさんから連絡があり、青葉台の自宅に伺った。
その日はいつも案内される応接間ではなく、私は仏間の隣の和室に通された。
あれ!ひばりさんがメガネをかけている。手に書類を持っているところをみると、ひょっとして老眼では…。
ひばりさんは私と同じ昭和十二年の誕生で、私もその頃既に老眼鏡をかけていたので、ひばりさんがそうだとしても不思議ではなかったが、自宅で寛いでメガネをかけているひばりさんを見るのは私は初めてだった。優しくて人間ぽくていいなと思った。
「私と和也で将来、楽しいことがいっぱい出来る二人の夢の会社を設立したいの」
早速、書類に目を通しながらひばりさんは切り出した。
“㈱藤和エンタープライズ”と社名も決まっていた。二人の名前の共通文字、加藤の「藤」と和枝と和也の「和」を取って藤和にしたと由来の説明を受けた。母と子の絆の深さを強く感じる良い社名だと思った。
ひばりさんは、ついては私に㈱藤和エンタープライズの社外取締役になってほしいと要請した。全く異論はなかったが私の立場は現役のコロムビアの社員であるため、正式には会社の職務規定に反することになる。しかし満面笑顔のひばりさんを前に私は「会社に持ち帰り上司と相談して後日お返事します」とは言えなかった。
「喜んで受けさせて頂きます。この会社のお力になれるよう頑張ります」
私はそう答えていた。
母親として今日に至るまでの苦労の数々や、我が子に捧げた愛情の深さを思うと私はその時「ひばりさん、良く頑張りましたね」と大声でねぎらいの言葉をかけたい気持ちだった。
ひばりさんにとって二人の会社設立は多忙な仕事の中で子育ての難しさを乗り越え、まさに手塩にかけた和也さんとの夢の船出である。
伝わってくるひばりさんの子育て奮闘話は数多くある。ひばりさんは仕事で留守をする時は必ず、和也さんとの親子の交換日記にお留守番の心得などを書き置いていた。また、幼い和也さんがおやすみ前に聴けるように自らの声で昔話を沢山録音しておいたりもした。多忙で家を留守にすることが多かったひばりさんではあったが、和也さんとの心のふれあいだけは決して忘れなかったという。
一般では当たり前のことだろうが、歌手美空ひばりにとって母親業最大のハードルは和也さんの学校行事ではなかったかと思う。
和也さんが入学した小田急線沿線にある玉川学園では原則として生徒は電車通学をしなければならない。車での送り迎えは勿論、父兄の校内への車の乗り入れも禁止されていた。有名人であるひばりさんも例外ではない。
小学校の入学式にはひばりさんは六歳の和也さんの手をひいて小田急線の電車に乗り出席したという。
ハラハラドキドキするスタッフも途中までしか同行出来ない。ひばりさんにとっては何もかもが初めての体験の中で出席した入学式だった。
式典では父兄の人達と一緒に歌も歌ったそうだ。後に「歌手美空ひばりが歌を歌うのにあんなに緊張したのは初めてだった」と我々に語っていた。
枯葉が舞い落ちるように一卵性親子と言われていた母喜美枝さんの逝去に続き、ひばりさんは、ひばりプロ社長として敏腕をふるっていた弟哲也氏を亡くした。そして追い打ちをかけるように末弟の武彦氏も失った。母の亡骸に縋り付くひばりさんや、亡くなった哲也氏に馬乗りになり半狂乱で泣き叫ぶ姿も私は見てきた。それでもひとりぼっちの女王美空ひばりは懸命に加藤家を支えてきた。
十代のまだ若い和也社長の㈱藤和エンタープライズは目黒通り一丁目の信号近くのビルの二階に産声をあげた。近くには業界では有名な田辺エージェンシーのシンボリックな本社ビルがある。
ひばりさんと愛息和也さんとの夢の会社設立の日を迎えた。私は事務所開きの案内を受け、正装で出かけた。
業界的に考えるとひばり親子の新会社のお披露目は所狭しとお祝いの花が並び、金屏風の前で二人が著名な方々をお迎えし、それを囲んでマスコミの取材が繰り広げられる。そんな光景を想像していたが、行ってびっくりした。
私の目に入って来た会社設立お披露目会場には花も金屏風も著名人の姿も無かった。
それは美空ひばりでなく、母加藤和枝としての我が子への配慮からだった。
---つづく
著者略歴
境弘邦
1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。