【山内惠介】紆余曲折あった20年の軌跡と師匠・水森英夫とのエピソード

2021.7.27

「ぼくはエンカな高校生」のキャッチフレーズで、17歳にして演歌歌手デビューした山内惠介。すでに20年のキャリアをもつ実力派歌手の山内ですが、ここに至るまでにはさまざまな出来事がありました。今回は、紆余曲折あった20年の道のりと、師匠である作曲家・水森英夫とのエピソードをご紹介します。

歌手・山内恵介の経歴

もともと演歌が好きだったという山内。そんな彼が歌手になり飛躍するまでを振り返ります。

音楽に囲まれて育つ

山内は17歳で上京するまで、実家の福岡県糸島市(旧前原町)で、両親、9歳と12歳離れた兄の5人で暮らしていました。母は懐メロや歌謡曲、父はオールディーズ、兄はWANDS、B’z、尾崎豊らが好きで、家庭内は常に音楽にあふれていたといいます。2019年12月31日に公開された婦人公論.jpのインタビューでは”自分の気持ちを初めてきちんと文字にしたのは、小学校の卒業文集。ただ、歌手になる方法がわからなかったし、その時は放送部員だったので、「歌手かアナウンサーになりたい」と書きました。”と話しています。美空ひばりの大ファンだった母の影響を受けて幼いころから演歌を歌っていた山内は、小学校の頃から声を活かした職業に就きたいと考えていたようです。

高校3年生で華々しくデビュー

歌手としてデビューするきっかけとなったのが、高校1年生のときに出場したカラオケ大会でした。叔父が内緒で応募したこの大会で、母が選曲した北島三郎の『男の劇場』を歌ったところ見事に優勝。このとき審査員を務めていた作曲家・水森英夫の目にとまりスカウトされました。実はもともと作曲家・中山大三郎が審査員を務める予定でしたが、中山が病気でこられなくなり、水森がピンチヒッターを務めていたのです。

こうして水森と運命的な出会いを遂げた山内は、高校2年のときに単身上京し、水森の弟子としてレッスンをスタート。2001年、高校3年生の時にビクターエンタテインメント(現・JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)からシングル『霧情』を発表し、「ぼくはエンカな高校生」のキャッチフレーズでデビューしました。

地道に積み上げた6年間

デビュー後の山内は、視聴していた歌番組に出たり全国キャンペーンをしたりと、充実していたといいます。しかし、4年目くらいからは思うように結果が残せず、地道に努力を重ねる日々が続きました。このころは大人びて聞こえる自分の声が損だと考え、必要以上に元気に振る舞うこともあったようです。

事務所移籍でさらに飛躍する

2007年、山内は現在の所属事務所に移籍しました。これを機に、見た目を変えたり、佐々木小次郎に扮して歌ったり、振付を入れたりとイメージが一転。このころからパフォーマンスを念頭におくようになり、パフォーマーとしての自分を意識するようになったといいます。2009年の9枚目のシングル『風蓮湖』はオリコン週間ランキングに 50週にわたってランクインする大ヒットに。また、2013年の初主演舞台『曽根崎心中』の劇中歌だった『恋の手本』はオリコン週間シングルランキングで9位にランクインし、デビュー13年目にして初のトップ10入りを果たしました。

NHK 紅白歌合戦に初出場

山内の快進撃は続き、2015年にリリースした15周年記念曲第1弾シングル『スポットライト』のヒットによりNHK 紅白歌合戦に初出場。その後もポップスや歌謡曲調のキャッチーな楽曲がヒットし、6年連続での出場を果たします。2020年11月には日本武道館にてデビュー20周年コンサートも開催され、全22曲のミュージックビデオが収められたDVD付属のコンプリートボックス『20th Anniversary Complete Box』も発売されました。

師匠・水森英夫とは?

山内のオリジナル曲を作曲している師匠・水森英夫はどのような人物なのでしょうか?水森の経歴と、山内とのエピソードをご紹介します。

多くの門下生をもつ作曲家

水森英夫は、日本作曲家協会常務理事も務める作曲家です。歌謡グループ「敏いとうとハッピー&ブルー」の初期のメンバーとして活動するほか、「三音たかお」の芸名で『たった二年と二ヶ月で』をリリースし歌手デビューを果たしました。1977年の歌手引退後は作曲活動に入り、審査員をしていたNHK『BS歌謡塾あなたが一番』でスカウトした氷川きよしを人気歌手に育てるなど活躍。2017年12月には美輪明宏のリクエストにより『第50回年忘れにっぽんのうた』で40年ぶりの舞台に立ちました。門下生には氷川きよしをはじめとし、森山愛子、山内惠介、音羽しのぶ、三代目コロムビア・ローズ、黒川真一朗、小村美貴、松尾雄史、幸田薫らがいます。

若いころに受けたアドバイス

水森に弟子入りすると4~5年は内弟子生活を経験するのが普通ですが、山内はすぐにデビューが決まったため、ほとんどその過程を経ませんでした。そのため水森からは、「内弟子経験がないままデビューし、もうレッスン生に戻れないから、今後はお客様の前で芸を磨け」と言われ、前に進むしかないと気持ちを切り替えたといいます。また、若いころは周囲から生意気だといわれることも多い山内でしたが、水森から、若いうちは目上の人に対し自分から「生意気ですが」といって発言するようアドバイスされたそうです。

今でも恩師の前では弟子の顔に

デビュー20周年を飾る『20th Anniversary Complete Box』の特別企画では、山内と水森の対談が実現しました。この対談で山内は、恩師から「年々よくなっている」「まだまだ余白があるから」との言葉を受けたそうです。久々にレッスンを受けたり多く会話をしたりと特別な時間を過ごした山内は、「師匠の前では弟子の顔に戻る」と話しています。プロとして大活躍する今でも、恩師・水森は特別な存在だといえそうです。

20周年を迎えた山内のこれから

2001年のデビューから20周年を迎えた山内。彼はどのような未来を見据えているのでしょうか?

これまでの19年間に対する思い

山内は今までの19年間について、先述した婦人公論.jpのインタビューでは”人生に無駄なことはないんだなと、心底思います。”と語っています。デビュー以降、一つ一つできることが増え、努力を積み重ねてきた日々。そういった過去があるからこそ今がある。つねに感謝の気持ちを忘れない彼は、周囲の期待に応えたいと考え、この19年間、真摯に歌とファンに向きあってきました。

“時代を歌う”歌い手として

そんな山内がこれから目指すのは、演歌が好きになったきっかけである美空ひばりのような歌手になること。2019年7月15日に公開されたうたびとのインタビューでは、”ひばりさんは、昭和という時代を背負われた人。自分に時代を背負うなんて考えもできませんが、流行歌を出すということは時代を歌うということなので、一歩ずつ自分の歌の完成度を高めて、ひばりさんのような歌手になることを目指していきたいと思っています”と話しています。

これからの時代を担う歌い手ならではの情熱がうかがえます。

山内惠介の過去のインタビューはこちらです。

山内惠介「美空ひばりさんは、僕の永遠の道標です」
https://www.utabito.jp/interview/1969/

ファンを魅了し続ける演歌界の貴公子

母親の影響から美空ひばりの音楽に親しみ、高校生で歌手としてデビューした山内。紆余曲折ありながらもブレイクを果たした彼は、さまざまな演歌・歌謡曲・ポップスのカバー曲などを歌い続け、演歌界の貴公子として20周年という節目を迎えました。今後も時代を歌う歌手として、多くの人達に知られていくでしょう。

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新譜!にっぽんのうた~ノーカット編~山内惠介『古傷』 ※本人コメント動画
https://www.utabito.jp/insidestory/8044/

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