<紅白>の魅力と舞台裏~NHK一筋34年の名物宣伝マンがみた景色~【その1】

2019.11.26

レコード会社の宣伝マンとして、NHK担当一筋、〈紅白歌合戦〉に携わること34年。元東芝EMI宣伝マン・野村次男氏に、日本で最も注目を集める国民的歌番組を相手に戦い続けた日々を振り返っていただいた。


野村さんが初めて〈紅白〉に携わったのは、60年代最後の大晦日となった1969(昭和44)年、第20回の記念大会だった。きっかけは、大学時代にアルバイトをしていたテレビ局のプロデューサーの紹介で、東芝音楽芸能出版社に就職したこと。そこから親会社であるレコード会社・東芝音楽工業(のちに東芝EMI、EMIミュージック・ジャパンと改称)のNHK担当者のアシスタントに命じられたことだった。

アルバイト時代は、テレビ番組のテロップを作ったり、出演者に合図するキューを出したりしていました。現場の仕事が大好きで、そのせいで大学は7年かかって卒業しましたが(笑)。ただ就職の際は、三波春夫さんや春日八郎さんなどの演歌が大好きだったので、レコード会社を希望しました

 

NHKに関わり始めてからまもなく、野村さんは本社である東芝音楽工業の宣伝マンに。以来、出世のポストを用意された人事異動でさえ断わり、NHK一筋に35年の宣伝マン生活を送った。

NHKには歌番組に真摯に取り組んでいるスタッフがたくさんいらっしゃいました。その番組に向かう姿勢が好きだったんです

特に大きかったのが〈紅白〉だ。NHK担当としてのレコード会社のメインの仕事は、「自社の演歌・歌謡曲の歌手を〈紅白〉に出すこと」だったと振り返る。

〈紅白〉に出るとレコードが売れるし、その後の営業のギャラも上がります。なんといっても〈紅白〉に出場できたら、一流の証。それは世間にも浸透していて、初出場が決まった歌手が田舎の母親に報告の電話をしたら、電話口で泣いていたという話も当時、よく聞きました

今でも大切に保管しているという〈紅白〉の台本

関係者に配られた法被

紅白の判定の際に使用するうちわ

〈紅白〉会場のみで販売されたテレホンカード

関係者用の夕食券。こういったものも大切に保管しているところからも〈紅白〉への思いの強さが窺える

そんな日本一の歌番組〈紅白〉に、どうやったら自社の所属歌手を出すことができるか。そのために野村さんは様々な策を練ったと言う。

当時、紅白に出場するために必要だったのは、レコードの売り上げと世論の支持、そして番組出演によるNHKへの貢献度。野村さんは、少しでも多くの番組に所属歌手を出演させ、NHKへの貢献度を上げるために、まずは番組スタッフに自分自身を売り込む作戦に出た。

まずは自分という人間を信用してもらうことから始めなければならないと思ったんですね。ですから、毎日NHKに通い、局舎内でお茶を飲み、食事をし、プロデューサーやスタッフをつかまえては会話をするようにしました。そして、仲良くなったら、外でお酒を飲みながら情報交換することも。また、歌祭りやのど自慢、ラジオなど、地方制作の番組も当時はたくさんありましたから、全国各地に出かけ、放送部長やディレクター、場合によっては地元のアナウンサーにも積極的にアプローチしました。信頼されれば、番組から出演依頼をいただけるようになりますからね

各地方で飲みに行った先の寿司屋で湯呑を買って集めることが趣味だったそう

とくに、反響が大きかったのは、毎週土曜日放送されていたラジオ番組〈FMリクエストアワー〉。この番組で流れるとヒットすることから、所属歌手が出演できるよう尽力したと言う。とはいえ、他のレコード会社や事務所も〈紅白〉を目指す気持ちは同じ。野村さんは、他社から一歩抜きんでるために、こんな秘策にも出た。スーツ姿の宣伝マンが多い中、名前と存在を覚えてもらうために自分の名前と東芝の文字を背中に大きくデザインしたジャンバーを自前で作り、常に着用。携帯電話も、東芝“1048”から始まり語呂合わせで覚えやすい番号を取得した。NHKの中で自分自身の存在感を高めていったのだ。

スタッフと距離を縮め、関係を築いていった野村さん。地方の番組では、突如、人手不足になったことを受け、NHKのスタッフに代わってキュー出しをして感謝されたこともあると笑う。

ジャンパーの評判が良く、東芝退職後に手伝っていた「お昼ですよ!ふれあいホール」のスタッフジャンパーも制作したそう

各地のNHK放送局へのアプローチは、〈紅白〉出場の選考基準となるアンケート調査のためにも必要だった。現在は、「今年の活躍」(CD・カセット・DVD・Blu-rayの売り上げやインターネットのダウンロード、ストリーミング・ミュージックビデオ再生数等)、「世論の支持」(電話やウェブアンケートで紅白に出場してほしい歌手男女各3組を調査)、「番組の企画・演出」の3つが選考基準となっているが、当時は、世論の支持率を測るために、各地の放送局などへのアンケート調査が行われていたのだ。

毎年11月くらいになると、各地方局に25組ずつ選んでほしいというアンケートが届いていました。NHK担当だった僕は、自分のところの所属歌手を選んでもらえるように、番組を通じて知り合った各局の放送部長やディレクター、アナウンサーたちにお願いの電話をかけまくったものです

野村氏が独自に作成したNHK全国アナウンサー名簿

野村さんにとって一番印象に残っているのは、1976(昭和51)年、第27回大会に初出場した伊藤咲子だ。日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』で優勝してデビューした伊藤を「絶対〈紅白〉に出してあげたい!」と思い、デビュー直後から、NHKのさまざまな番組に出演できるよう、全国の放送局をまわった。野村さんのその奮闘と並行して、デビュー年の’74年にリリースした2枚目のシングル『木枯らしの二人』は翌年のオリコン年間ヒットチャートで36位を記録、続く’75年の『乙女のワルツ』で日本テレビ音楽祭・金の鳩賞を受賞。着実に実績を積み、知名度も上がり、デビュー2年後に初出場の栄誉を手にしたのだ。

昔は、出演者が偏らないように、中2日空けないと、NHKの番組には出られないという民放にはない厳しいルールがありました。例えば日曜日の〈のど自慢〉に出たら、火曜日の〈歌謡コンサート〉には出られないんです。また、新曲は発売日の一日前であってもNHKでは歌うことができなかった。そういうことを計算して、出演回数をどう増やせるか、いろいろ考えましたね。
紅白が決まった時は出場年の記念として、その年のハガキを大量に買ったほどです。後年、退職のご挨拶の際には、その時のハガキに“尚、このハガキは昭和五十一年に伊藤咲子が〈紅白歌合戦〉に出場し、嬉しくて記念に購入したものです”というメッセージを添えて、お世話になった方々にお出ししました

ちなみに伊藤は〈紅白〉で、その年にリリースされた『きみ可愛いね』を歌唱。バックコーラスとして、岩崎宏美、太田裕美、キャンディーズ、森昌子を従えて、華やかなステージを展開した。

 

(次回は、昭和の〈紅白〉を振り返る)