【第13回】コロムビア制作部後期の頃⑬「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.3.29

「美空ひばり全国葬」 青山の空に響いた大合唱 『川の流れのように』

知らず知らず
歩いて来た
細く長いこの道
振り返れば
遥か遠く
故郷が見える…

参列したアーティスト全員の大合唱が始まった。
ひばりさんの遺影に向かってそれぞれが思いを込めて歌った。目に涙して歌う人もいて、実に心に沁みる歌だった。
この合唱に呼応して会場の外で準備していた専属バンド、ひばり&スカイの演奏が始まり、それに合わせて大勢のファンの人達の大合唱も始まった。
在りし日にスタジオで議論し〝川〟に拘り続けたひばりさんが自らの信念で決め、はからずもラストソングになった『川の流れのように』は大河となって東京青山の空に響き渡った。歌は場所を選ぶのか、青山で聴くこの歌は格別のものとして私の心の奥深くまで届いた。

まだ幼さが残っていた加藤和也ひばりプロダクション社長は加藤家の代表として見事にその仕事を果たした。世間の人が一生かかって経験することをこの数ヶ月で体験し逞しい青年に成長した若にはかつてのヤンチャな面影はもう無かった。

1989年7月22日夕方、私は青山の空を見あげた。十万人の弔問客に一人として怪我人も無く無事に終わったことをひばりさんに報告した。不眠不休の激務のひと月がやっと終わった。ドッと疲れが出て来た。
早速、今日手伝って頂いたコロムビア、東宝、コマスタジアム三社の社員の方々約二百人に御礼を言ってこの会を解散し、私と大槻氏で葬儀事務所に終了の挨拶に行った。
「大きな混乱もなく無事終わりました。ありがとうございました」
「ご苦労様でした。ところで弔問客が並ばれていた前の道から青山墓地にかけての掃除は誰がやるのですか?石原裕次郎さんのときは石原軍団の人達で綺麗にされましたが…」
しまった!”終わり良ければ全て良し“一番肝心なことを忘れていた。恥かしいぞ。
お手伝いの方達は全員帰って一人も残っていない。居るのは大槻氏と私の二人だけだった。二人とも歩けない程疲れていたが箒とビニール袋を買って来て掃除を始めた。四万人の人が並んだ後のゴミ拾いは想像以上に大変な作業だった。長い長い一日はやっと深夜になって終わった。

翌日、私は一人でテレビ各社に挨拶廻りに出掛けた。挨拶とは聞こえがいいが、実はTBSを除くテレビ各社へのお詫びである。会社の宣伝車に手土産を積んで最初に麹町にあった日本テレビに行った。
予想していたが、制作の部屋の空気は冷たく、私は部長席の前で頭を下げたまま凍りついていた。
そんな私に声を掛けてくれた人がいた。当時の専務、中野曠三氏だった。
「よくやったね。お疲れ様」
そう言って私を社長室に連れて行ってくれた。
高木社長を交え、昨日TBSが独占放送した〝美空ひばり全国葬〟の話になった。
沢山あるデータの中に、テレビ保有世帯の九割がひばり関連の放送を観たというものがあったと聞き、私は嬉しくなった。
中野さんは関西人特有の明るさで
「どこのチャンネルで観ようとテレビが熱く盛り上がればいいんだ」
と私の肩をたたいた。
「で、次はどこに行くの?」
「はい、フジテレビに行きます」
と答えた。
そこでも中野さんは私を気遣い、当時フジテレビの編成局長だった村上氏に電話を入れ、私が伺い易いよう配慮してくれた。

中野さんとの出会いは日テレとコロムビアのゴルフコンペだった。日テレのキャプテンが中野さんで私も参加していた。
そのコンペの最中、ゴルフ場に救急車や保健所の車が突如集まってきて、全員プレーを中断しクラブハウスに引き上げるよう指示があった。一体何が起きたのか?
この騒動の原因はコロムビアチーム内にあった。
前日、東南アジア出張から帰って来てコンペに参加していた日テレ担当の宣伝マンが成田空港の検疫で赤痢であることが判明したのだ。感染防止の為、プレーは勿論、クラブハウスの利用も禁止。コンペの表彰式も無し。海好きで有名な中野さんに喜んでもらえるはずだったセーラー帽子の賞品もお土産扱いになってしまった。
全員が身体を消毒され真っ直ぐ家に帰るよう厳重に指示されたが、私と上司の根本さんは赤坂でサウナに入り、銀座で深夜まで遊んで帰った。
だが翌日保健所にバレ、私達は大目玉を喰らった。赤坂のサウナも銀座のクラブも保健所から白い粉で消毒されたらしく
「ネモちゃん、弁償してよ!」
と根本さんは銀座のママに怒られていた。日テレのメンバーの中にはご近所に迷惑をかけたと言って引っ越した人もいた。
この強烈に印象に残るゴルフコンペで私は中野さんと出会った。
その中野さんに最初に勇気を貰って私は懸案だった民放各社へのお詫びを終えた。

葬儀をイベント化したことがより功を奏したのかコロムビアの美空ひばり関連商品はよく売れ、年間百億の大台に達した。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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