【第14回】コロムビア制作部後期の頃⑭「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.4.1

美空ひばり 国民栄誉賞受賞とレコード大賞ノミネート

戦後の国民に夢と希望と愛を与えてくれたひばりさんに女性初の国民栄誉賞が贈られた。ひばりさんが逝って二週間というスピード受賞だった。

私は資料の提出や様々な書類の手続きに当時の宇野内閣の官房長官、塩川正十郎氏の元へ頻繁に訪れた。

表彰式は七月六日、首相官邸で行われ、コロムビアから望月社長と私が出席した。テレビでよく見る組閣後の写真撮影で使われる雛壇で宇野宗佑首相、塩川官房長官他関係者と一緒に記念写真を撮った。

その後の懇親会では機会を作ってここにいるメンバーでひばりソングを歌いにカラオケに行こうと盛り上がったが、宇野内閣は短命に終わり、実現しなかった。

 

賞と言えば、この年のレコード大賞は私の人生を大きく変えた。

各民放の音楽祭では美空ひばりは特別功労賞を戴いていたが、レコード大賞だけは主催する日本作曲家協会から大賞候補として『川の流れのように』をノミネートするよう要請を受けていたが私は断り続けていた。

その主な理由はアーティストが不在であることだった。テレビで放送される音楽祭は表彰されるアーティストが居ないと絵にならない。まして当時は大晦日に生放送されるレコード大賞はアーティスト賞の最たるものだと思っていた。

主催の作曲家協会が主張する作品賞にはなり得ないと思っていたが、なかなか主催者側に理解してもらえなかった。ましてひばりファンの人達にとっては尚更理解できず、大賞コールがファンの間に吹き荒れていた。

中には、ひばりさんの生前にはペコペコしていたのに、亡くなったとたん、手のひらを返す態度は許せないといった過激な意見もあった。

社内でも

「何を躊躇しているのか。要請されているなら出せばいい」

といった短絡的な声も多くなっていた。

そんなある日、日本作曲家協会会長の?田正先生から私に直接電話があった。

「あの作品に何か問題でもあるのですか?我々は素晴らしい作品だと思っているし『川の流れのように』が無かったら今年のレコ大の意味がない。視聴者も納得しない」

と、一方的に主張し十一月十四日のレコ大の会議に出席するよう申し付けられた。十一月十四日か!ノミネートの最終締切か!

私はこの会議で結論を出すため専務の宮川氏と二人でTBSに出向いた。

作曲家協会から?田先生他三人、審査員側から伊奈一男先生等、TBS側は先の「美空ひばり全国葬」で大変お世話になった弟子丸部長他四、五人が出席した。

冒頭からノミネートするかどうかの議論に入った。?田先生の主張に対して私ははっきりノーと答えたが、その他の人達は玉虫色の意見のやり取りを交わしていた。

痺れを切らした?田先生からレコ大改革とも取れる発言が飛び出した。この曲に誰が投票したかしなかったかハッキリさせたい。それでどうだ!踏絵論である。不愉快な話になった。審査員が踏まれる前にこっちが踏まれる。危ない!と思いながらも私は益々追いつめられていった。会議室の雰囲気はコロムビアが被告席に座っているような力関係になっていた。

女性初の国民栄誉賞を頂いた美空ひばりに歌謡界最高峰のレコード大賞で顕彰しようとする主催の日本作曲家協会の有難い思いはひしひしと伝わって来ていた。

ファンクラブもコロムビア社内もレコ大獲るべし!の流れになっていた。私は同伴している宮川専務と相談の上、ノミネートに踏み切った。しかし、私のこの判断はやはり甘かった。

この年のレコード大賞にはコロムビアは新人賞にマルシアをノミネートし、出来たばかりの美空ひばり賞には松原のぶえを推していた。ひばりの冠のこの賞は、コロムビアとしては絶対負けられない勝負だった。最優秀歌唱賞を狙っていた石川さゆりは無風状態だったが、そこにレコード大賞を狙って急遽美空ひばりが参戦したことで私は猫の手も借りたくなるほど忙しくなった。

新人賞の相手が私にとっては悪かった。東芝EMIの田村英里子だ。彼女はサンミュージックの新人で参謀は言わずと知れた福田専務だった。困った。やりにくい。

福田時雄さん。大好きな先輩でマネジャーの鑑だと今でも思っている。彼は酒を旨そうに呑み、歌を楽しそうに歌う。人懐っこく話し、友達をいっぱい作る。私は現役時代、都はるみに関わって知り合った。私にとってはプロモーターの師匠と仰ぐ人だ。水戸黄門のように二人で地方によく出掛けた。北海道から九州まで地方局の人を沢山紹介して頂いた。出掛けて行った先々で二人でバカ騒ぎをよくやったが芸達者な福田さんがいつも主役だった。酒場で演じる都はるみの『好きになった人』や鶴田浩二の『同期の桜』の台詞バージョンはお捻りが出るほどの好演だった。

福田さんと私は一緒に遊んだ審査員、特に地方の審査員の票を巡って、この年の新人賞を競うことになった。お互いにエールを送りながら頑張ることになった。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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