【第32回】流浪のサラリーマン時代 営業所編①「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.4.25

正社員になれた

小さな桐の箱に入ったコロムビアの社章をやっと手にした。

わずか三センチ四方ほどの軽い箱だったが、私にとっては将来の進路を決めた大切な桐の箱になった。憧れ続けた音符マークの裏には社員番号が刻印されており、正社員になれた証しであった。

「お袋!喜べ!心配かけたが俺もついに社会人になれたぞ!」

届くはずもない遠く離れた田舎の母に声を出して報告した。

アルバイトから試用員、そして正社員へ…働いて働いて耐えた五年間のご褒美だった。

買ったばかりの背広の胸にピカピカの社章を早速付け、鏡を覗いてみた。

よし!これでセールスマンになれる。夢を見るのはこれからだ!自信のようなものが湧いて来たし、世間の信用も少しは得たように思えた。

舟木一夫が学生服姿でデビュー前のプロモーションの為、営業所廻りをしていた昭和三十七年春、私は二十五歳でコロムビアに正式入社した。

正社員になったらすぐセールスマンになれると勝手に思い込んでいた私に、与えられた仕事は神戸に新しく開設される営業所の準備の仕事だった。私が一人でやることになった。

その頃、コロムビア大阪支店では従来担当していた営業エリアの分割が進められており、呼称も支店から営業所に変っていた。

大阪、梅田、広島、高松にそれぞれ営業所が出来、関西での五番目の営業所を神戸に開設する計画が進められていた。

私は神戸に通うのにより便利な梅田営業所に初めての転勤辞令を受け、神戸三宮を中心に物件探しを始めた。

不慣れな仕事に加え、私の名刺には肩書も無く不動産業者との折衝はなかなか相手に信用してもらえず難航した。

そんな状況を見かねた当時の上司が便宜上、私の名刺に〝神戸営業所開設担当課長〟の肩書を付けてくれた。今なら役職詐称で罰せられるが、不思議なものでこの名刺が力を発揮した。

神戸三宮駅から徒歩五分の所に四階建ての中古ビルを購入できた。

電機部門を併設した日本コロムビア神戸営業所が昭和三十八年に開業した。

物件の購入、登記、リフォーム、什器備品の整備など全て私には初体験の任務だったが無事に終わった。

その頃、神戸で聴いたコニー・フランシスの『ヴァケイション』は今でも耳にすると、当時を蘇らせてくれ私を若かった日に連れ戻してくれる。

この仕事が終われば今度こそ間違いなくセールスマンになれる。内心ワクワクしていたが、私を待っていた仕事は新設された神戸レコード営業所の商品課主任だった。またダメか!背広も二着、月賦で買って揃えたのに…。残念だった。

でも私は初めて六人の部下を持った。これまでの便宜上の課長ではなく正式な役職に誇りと責任を感じた。

そして私は二十六歳のこの年に嫁をもらった。〝もったいない。もったいない〟が口癖の四歳年下の嫁に家事、育児、全て丸投げし、私は家にも帰らず働いた。

それが家族にとって幸せだったのかどうか判らないが、結果、晩年になって人並みの暮らしを得られたと勝手に思っている。

振り返ると、住む家も貯えも無かった新婚生活は貧しく惨めだったが今は笑って話せる。

私の人生を語るうえで嫁の存在は欠かせないが、このコーナーで書き残すことに嫁は同意せず、省略することにした。

 

私は社内で二十ヶ所近く所属部署を変え、三十三年間、コロムビアにお世話になったが、本社勤務を除くと神戸に居た五年間は同一勤務部署としては一番長かった。

私は豊中から十三を経由して阪急神戸線で通勤していた。毎日が新鮮で希望を持って仕事に立ち向かっていた新米サラリーマンの大切な時期を神戸で過ごした。

仕事は商品課課長(一年で主任から課長になった)だったが、私は出荷作業が終わる夕方四時頃から販売店や、地元のマスコミによく出掛けて行った。

神戸市内を中心に行動していたが、用件次第では姫路まで足を伸ばすこともあった。

元町という街は全国に沢山あるが、取り分け神戸の元町は異国情緒に溢れ、私は大好きだった。

この街に関西の販売業界のドン、村上清一社長の経営する大蓄はあった。

神戸三宮の電車通りにダイエーの一号店、主婦の店ダイエーがあった程度のこの時代、買い物の中心は商店街だった。

元町商店街の大蓄も賑わっており、村上社長も羽振りが良かった。当時ヘビースモーカーだった私に、毎日のようにキャメルとかラッキーストライクといった洋モク(外国タバコ)の差し入れをしてくれた。

販売業界のドンと恐れられていた村上社長は実は親切で私には優しかった。

私はこの神戸で村上社長ご夫妻と、後述する砂川レコード店の砂川社長ご夫妻にものすごくお世話になった。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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