【第31回】島倉千代子とのエピソード⑤「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.4.24

『人生いろいろ』で再度紅白に出場

皮肉にも昭和六十二年末に行った島倉さんの紅白辞退記者会見の翌年に『人生いろいろ』が大ヒットした。

当然のようにNHKから紅白への出演要請が来た。受けたコロムビアは対応に困った。出演を了承すれば、ではあの会見は嘘だったのかと言われるが、会社としてはプロモート効果を考えると大晦日に歌ってほしかった。

私は島倉さんの心変わりはないと信じていたが取敢えず、相談に伺った。

「なに馬鹿なこと言ってるのよ。あの会見、一緒だったでしょ!」

と、バッサリやられると思っていたら反応は全く逆だった。

「あっそう。嬉しいね。大至急着物の準備をしなきゃ」

と言い出した。

「だけど、紅白辞退会見の舌の根も乾かぬうちは出演は遠慮すべきかと…」

「それは正論と思うけど『人生いろいろ』を大晦日に聴きたいと思っている人が沢山いるのよ。それとこの歌、大晦日にピッタリと思うけど…」

急にお客様の立場からの発言に変わった。一般論では裏切り行為に等しいが、我々の業界ではヒット曲が全ての状況を一変させる事例は沢山あった。

ヒット曲が万能薬であることは解っていたが、それにしても、このベテラン歌手の信念までも変えてしまうのか…。

私は島倉さんの話を聞きながら改めてヒット曲の持つ力の大きさを痛感した。

私達の商売はヒット曲が作れなかったら全て負けになる。ヒット曲がスタッフを育て、タレントを育てる。私はこの一件で、今自分が置かれている立場を再確認できた。 島倉千代子はその年の紅白に出場し『人生いろいろ』を歌った。

 

島倉さんは興味を持つと夢中になりやすいタイプだった。島倉千代子の事務所がまだ“花企画”と云っていた頃、社長の萩原氏から相談を受けた。

「近頃、うちの看板が気功に凝っていて、その道の有名な先生に師事しているようです」

「それで私に何か?」

「うちの看板は先生に教わったことを試してみたがっていますが、患者が誰もいません。境さんは肩凝りがひどいと聞いていますが、どうでしょう?うちの看板の患者になってくれませんか?」

「オイオイ!萩ちゃん、俺を実験台にする気か!」

とは言ったもののタレントとの信頼関係を保つことも制作部長としては重要な仕事と割切り、俄か作りの“島倉整体院”に出向いた。

治療室は勿論無く島倉さんのベッドルームに案内された。

初めて入ったこの部屋には正面の壁に島倉さんが大尊敬する美空ひばりさんがこちらを向いて微笑む等身大のポスターが貼ってあり、その前に治療の為に私が座る椅子が用意されていた。

「もう少し、肩の力を抜いて楽にしてください」

治療らしきものが始まったが、目の前にひばりさんが居て後ろに島倉さんが居る状況で肩の力を抜ける訳も無く、逆に力が入るばかりだった。

「看板!力を抜けと言っても無理ですよ。せめて目の前のひばりさんのポスターだけでも剥がしてくれませんか?」

と、お願いしたが

「これはダメ。私のお宝なんだから…」

と断られた、

仕方ない。今回一回だけのお付き合いだと思い、私は腹を括り我慢した。肩凝りの治療は終わった。

「ずいぶん楽になったでしょう?」

自信ありげに島倉さんが言ったので

「お蔭様でものすごく軽くなりました。ありがとうございました」

御礼を言って早々に退散したが、肩はカチカチに凝ってかえってひどくなってきた。

翌日、萩原社長からまた電話があり

「うちの看板が週一回のペースで少し続ければ、境さんの肩凝りは完治すると言ってますので、週に一回お願いします」

と言って来た。

「萩ちゃん勘弁してよ。島倉さんには内緒だけど、島倉さんの治療の後赤坂でマッサージを受けて帰ったんだゾ!」

それでも私は四、五回通った。島倉さんは喜んでくれたが、私の肩の調子は悪くなった。

私以外、島倉さんの治療を受けた患者が居たかどうか定かではなかったが、しばらくして島倉さんの気功の話は立ち消えた。

何事にも一生懸命でおかしな人だったが、一度だけ、ドキッとするすごいものを見た。

あれは歌手生活三十周年記念感謝の夕べを赤坂プリンスホテルで開催した時のこと。出番前の控室で何やら着物の帯の間に挟んでいたので私がそれは何ですかと質問してみた。

「これね。私の子供なの。この子達の為に頑張って来れたので、今日は一緒にステージに立つのよ」

と言って水子の札を大切に大切に帯に忍ばせポンと勢いよく叩いて気合を入れた。

ごくごく普通の女の幸せすら諦めねばならぬプロ歌手の厳しい世界を垣間見て、私は身が引き締まる思いがした。

そして『この世の花』『逢いたいナあの人に』『東京だヨおっ母さん』など、島倉千代子が身を削る思いで育てて来た名作の数々を、自分の手で後生に伝える努力をしたいと、その時私は肝に銘じた。

この章終わり

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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