【第34回】流浪のサラリーマン時代 営業所編③「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.4.29

村上社長と最後の喧嘩

「オイ境、俺が今何処に居るか当ててみろ!」

大蓄の村上社長から突然の電話だった。

わかる訳もなかったが、取り敢えずヨイショも込めて

「大阪のテレビスタジオでしょ?」

「惜しい!スタジオはスタジオでも俺はレコーディングスタジオに居るんだ」

この頃、村上さんは大阪のテレビと組んで〝関西演歌大賞〟などを制作していて、彼の関西演歌界での発言力は頂点に達していた。

「スタジオで何をしているのですか?」

「演歌を作っている。もうお前達には任せておけない」

村上さんは私がその頃演歌の制作部にいることを知って、挑発的な電話をして来た。原田悠里の『木曽路の女』のプロデューサーを頼まれたと自慢げに話していた。

村上さんは元々演歌を馬鹿にしていた。ある時、体調不良で長期入院することになった。

私と砂川レコード店の砂川さんとでお見舞いに行くことになり、見舞いの品として演歌のカセットとラジカセを持っていった。

カセットは砂川さんが選曲し準備したもので、十本以上あったと思う。

後日、付き添っていた奥さんから聞いた話では、最初は見舞品の演歌のカセットに全く関心を示さず、手も付けなかったらしい。でもそのうち、病院から外出も出来ず、暇で暇で仕方なく演歌のカセットを聴き始めたそうで、時には涙を流して聴いていたこともあったと話してくれた。

退院後はすっかり演歌の虜になってしまった。多分、砂川さんの選曲に嵌まったのだと思う。

村上社長は年を追って演歌にうるさくなってきた。各レコード会社から、発売される作品のサンプルを届けさせ、全て聴き、各社のセールスマンを捕まえては評論を展開していたそうだ。

 

時は昭和から平成の時代へと流れ、私はコロムビアを退社した後、ビクターの長山洋子のアイドルから演歌歌手への転身の仕事をさせていただくことになった。

私の掲げた戦略のひとつに年間四本の新譜を発売すると云うものがあったが、この戦略に村上さんが会長を務める関西レコード商業組合連合会から猛烈な抗議が来た。

当時ビクターの営業担当だった須田常務が大阪に呼び出された。私も同行させてもらった。

用意されたホテルの会議室には、関レ連側から村上会長はじめ、ミヤコの陰山社長、エコーの中江社長の関レ連三役が待ち構えていた。

久しぶりに村上さんにお会いしたが、目を合せた瞬間、面倒くさい奴を連れて来たなと顔に不快感を表した。

「神戸の皆さん、お元気ですか?」

私の挨拶にも耳を貸さず、冒頭から喧嘩腰で演歌に対する持論を捲くし立てた。

村上さんの持論を要約すると、演歌の新譜発売は年間一本に絞り、長期間かけてじっくり売るものだ。演歌に転身した新人が年間四本も新譜を発売するなど狂気の沙汰で関西のレコード店としては受け入れられない。再考しろと云った内容だった。

新譜の編成に関して販売店側から意見を聞くこと自体、私には違和感があった。ムッと来た。

「会長、演歌は年間一作品と云うルールを一体誰が決めたのですか?それともビクターとの販売契約書に記載されているのですか?」

「あんた黙ってろ!」

「そうはいかない!このプロジェクトのリーダーは私です」

私は一歩も譲歩する考えはなく猛反論した。

「仮に一作品に絞ったら、一年間店頭の在庫保証をしてくれますか?ヒットさせるための店頭プロモーション施策はありますか?」

私は長山洋子が演歌歌手に転身して勝ち残るためには、荒技ではあったが、三ヶ月に一本の新譜の発売は最も有効なプロモーションだと確信していた。

そして、百万枚程度の売上げが無いと、長山の演歌転身は成功したことにならないし、私自身、経済的困窮から脱出できないと考えていた。

年間売上げ目標、百万枚!このプロジェクトの悲願だった。

「村上会長!我々が年間何作品出しても売れ残ったら返品するのでしょう?長山と私にはそんな救済はありません。負けたらその時点で消えるだけです」

私達と関レ連側の話し合いは平行線で決着はつかなかった。

そのくらい当時の村上会長は新譜発売の是非にまで口出ししていた。

長山プロジェクトは結果その年、三本の新譜を発売し悲願の百万枚を達成出来た。

「おまえは二度と関西に足を踏み入れるな」

あの時、別れ際に村上会長にそう言われたが、

「また来いよ。元気でな…」

気心の知れた私にはそう聞こえた。

あの時代、よく遊びよく口喧嘩した。会長は私を可愛がってくれた。

「オイ、肉の旨い店をみつけたぞ」

有無を言わさず、私を会社から連れ出しご馳走してくれたこともあった。あの時の神戸牛のステーキの味は村上さんの味として、今も懐かしい。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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