【第35回】流浪のサラリーマン時代 営業所編④「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」
演歌の神様と言われた砂川社長
神戸に演歌の神様が居た。砂川レコード店の砂川盛彦社長のことを演歌業界の人は神様と言っていた。
第一印象を聞かれるとほとんどの人がヤクザの親分と答えるほど、砂川さんは強面で眼光は鋭く、その上坊主頭に近いくらい髪を短くしていた。
広島の出身だと聞くとレコード店を開く前は何屋さんだったのか尋ねたくなる。
「客をよく見て物を作れ」
訪店する毎に本社制作部への伝言を繰り返し聞いた。また
「演歌で百万枚のヒットを作ったディレクターには家の一軒でも建ててやれ」
これも本社への伝言だった。
兎に角、砂川さんは演歌が好きだったし、勉強家だった。
神戸新開地にあった五十坪ほどの店の奥に二階へ上がる急な階段があり、そこを這い上がると八畳くらいの和室があった。
部屋にはカセットテープが山積みされ、その前に座布団が一枚、ポツンと置いてある。
砂川さんは閉店後はここに座って歌を聴いていた。酒は一滴も呑まず、粗食を好んだ。
そんな人柄の砂川さんを社長と言うより〝親父さん〟と慕って演歌のディレクターがよく訪ねていた。
テイチクの千賀さん、キングの古川さん。コロムビアの中村君などは自分が手掛けた作品を自ら持参して試聴を願い出ていた。
当時、神戸レコード営業所の商品課長だった私はその様子を対岸の事として捉えていた。まさか自分が演歌制作の仕事をやることになるとは、その時は露ほども思っていなかった。
今考えるとあの時、もっともっと砂川の親父さんから盗めばよかった。骨の髄までしゃぶればよかったと後悔している。
砂川さんは各社の新譜を例の二階の勉強部屋で聴き、これは!と引っ掛かった作品を店で流してお客さんの反応を見ていた。
「境さん、これをかけるとお客が必ず振り向くよ」
歌が店内に流れると五、六人居たお客さんが親父さんの言った通り、一斉にレジの方を振り返った。
「これ、売れるよ」
「はぁ…」
当時の私は親父さんの話を充分理解出来なかった。
「詞も曲もいいね。欲を言えばイントロがギターだったらもっと売れると思うな」
「ギターの方がいいんですか?」
当時はサム・テイラーのテナーサックスやニニ・ロッソのトランペットなど管楽器の演奏ものLP盤がよく売れていて、店の中央にコーナーが出来ていたが、最近では店の隅のコーナーにある弦楽器の演奏もののレコードがよく売れるようになって来たと言っていた。
「これからの時代は弦やな」
イントロはギターだったら…に繋がる話である。
「客が店で求める音は巷の音だ」
親父さんはそう言っていたが、なるほどと私も少しは納得した。
私が神戸に居た一九六七年に、扇ひろ子の『新宿ブルース』が発売されると、砂川さんはすぐ初回百枚の注文を出した。新譜の注文としては異例の出来事だった。
「これ、売れまっせ。他の店で在庫になるようだったら全部うちにまわしてや」
親父さんの言った通り
この曲は扇ひろ子の代表曲となった。
砂川の親父さんの演歌・歌謡曲の勉強はその後も続き、その感性に益々磨きがかかっていった。
私が演歌制作グループに行って間もない一九八〇年に発売された都はるみの『大阪しぐれ』のときは
「今度のはるみちゃんの曲は売れまっせ。横に揺れる感じがいいね。やっぱ、はるみちゃんは歌がうまいな!」
親父さんはサンプルを聴いた時点で『大阪しぐれ』は大ヒットすると言い切った。
その頃の私はやっと仕事が出来るようになって来たがまだ自信は無かった。全ディレクターに
「思い切って全力で作品を作ってくれ。私はそれを一生懸命売る!」
と言って約束していたが、『大阪しぐれ』は編成会議の時から躓いた。
中村一好ディレクターが制作の主旨を熱く説明しても出席者の反応は鈍かった。特に営業部からは、これは都はるみの作品とは程遠い作品で売れないと評価され、初回出荷数は従来のはるみ作品に比べ、桁外れに低く五千枚程度の数字しか付かなかった。
出席者の中に一人ぐらい高い評価をする人は居ないものか探し求めたが、肝心の宣伝部も営業部に同調して宣伝予算は少なく設定された。
四十人近い会議出席者の中で私と中村君は孤立した。
社内で窮地に追い込まれていたそんな時、神戸砂川さんから〝売れまっせ〟の電話に私も中村君も勇気づけられ、助けられた。
『大阪しぐれ』は砂川の神様の言う通り、百万枚を越える大ヒットとなり、昭和を代表する作品のひとつとなった。
同じ頃、砂川さんは中村美律子のP盤を関係者に聴かせ、
「この子は売れる。近い将来、スターになる」
と、太鼓判を捺していた。
---つづく
著者略歴
境弘邦
1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。