【第40回】流浪のサラリーマン時代 営業所編⑨「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.5.7

販売店の倒産、閉店を味わった小倉時代

神話の里と呼ばれる高千穂と云う町がある。天照大神の降臨の地として、又夜神楽でも有名なこの町は宮崎県北の延岡から当時は日之影線に乗り換え、終点の日之影駅から先は山肌に張り付くような山道をバスで行くしかないところで、秘境と言われていた。

その高千穂に佐藤電器はあった。地方でよく見る電器とレコードの併売店である。

この店を訪店するには丸一日掛かることもあって、各社のセールスマンはあまり行きたがらなかったが、当時、ビクターの担当セールスマンの鶴田氏は何故かよく訪店していた。

私はこの高千穂に興味があって、担当者に代わり、一度だけ訪店したことがある。

その日私は日之影駅を降りると、高千穂行きのボンネットバスの一番前の席に座った。

バスが山道のカーブを曲がる毎に、深い谷の上にバスの先端がはみ出し、聞いていた話以上に怖かった。

その日もビクターの鶴田氏は店に居た。座敷に上がってテレビを見ていた。

私は佐藤電器への挨拶が目的で訪れたが、集金も兼ねさせて頂き、帰りは夜のバスに乗ることになってしまった。

私が乗り込んだ最終のこのバスに鶴田氏は乗っておらず、客は私一人だった。

バスは暗闇の山道を延々と下って行った。バスの転落事故が私の頭をよぎり、集金した現金の入ったカバンを膝の上に抱え汗ばんだ思い出がある。

後日営業会議で、高千穂の佐藤電器を例に挙げ、ビクターの営業のきめの細かさを報告したら、全員に笑われた。

その当時佐藤電器の娘さんと鶴田氏は婚約していて彼は頻繁に高千穂詣でをしているのだと知らされた。

この若き日の鶴田氏こそ、昭和六十年の直木賞作品、山口洋子著「演歌の虫」の主人公で、後に昭和を代表するヒットメーカーの一人となった伝説の名ディレクター、鶴田哲也氏であった。

鶴田氏は不幸にも志半ばで他界されたが、私は高千穂でのご縁もあり、後日彼を偲んで、各メーカーのディレクターに集まって頂き、彼が残したヒット作品を歌い明かしたこともあった。

 

所長が代わった。個性派の前田さんから理論派の戸塚さんに代わったが、この頃を境にして北九州営業所の業績が下降しだした。

炭鉱の街、筑豊の飯塚、直方などに炭鉱閉山の影響が出始め、それを追うように八幡製鉄所に代表される北九州工業地帯の消費が後退していった。

倒産したり、閉店するレコード店も出始め、その処理の為に私は家に帰れず多忙を極めた。

寝袋の中から倒産の噂のある店を見張ることが増えてきた。生れて初めて寝袋で寝る体験をしたのもこの頃だった。

寝袋で寝ていると犬に吠えられたり、やぶ蚊に刺されたり、散々な目に遭った。

当時のレコード店の仕入れの支払いは、現在のような月末現金振り込みと違い、六十日、九十日と云った手形払いの為、売掛金と店頭在庫のバランスをいつも注視する必要があった。

毎月、月末が近づくと私達は危ない噂の店の近くに寝袋を持って待機していた。

経理と連携して、受け取った手形が不渡りになった場合には、店からすぐに商品を引き上げることになっていた。

自社商品で足りないときは他社商品を引き上げ、後の債権者会議の主導権を握ることも考慮していた。

慎重に行動し、外に漏れないように神経を使っていたが、宮崎県内の中型店が倒産した時はビクターに惨敗した。

その時は店の近くに簡易旅館があったので、店の裏口がよく見え、人の出入りが把握できる部屋を手配していた。

そこから店の様子を見張っていたのだが、いつもの寝袋と違って心地が良く、私達はついつい寝込んでしまった。

窓の外が明るくなってハッとした。

「オイ起きろ!」

私はセールスマンを起こし、慌てて店のシャッターのポストから中を覗いて愕然とした。

店内はもぬけの殻で商品らしいものは何ひとつ残っていなかった。

何ヶ月もかけて在庫の調整を進めて来たが一夜で無駄になった。

近所の人の話では深夜に犬のマークの入ったトラックが来て、荷物を運び出していたと言うことだった……。

レコード店の閉店、倒産は各メーカーに被害が出るが、それを遥かに越える大事件がコロムビアに勃発した。

一九六八年、長年洋楽の柱として販売して来たCBSがコロムビアから離れ、ソニーとの合併会社CBSソニーを設立した。

メインレーベルが抜けた。常に店の常備在庫として大量に売り込んでいたCBS商品の返品が始まった。

営業部から代替注文を取り、帳尻を合わせるようにと指示が出たが、CBS商品に量的に代わるものなど見当たらず、洋楽の強い店への請求は数ヶ月も赤になった。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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