【第39回】流浪のサラリーマン時代 営業所編⑧「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.5.6

ゴルフと焼酎の洗礼

ビューン、ビューンとクラブを振る音はするが、ボールは微動だにしない。元高校球児の自信はあっさり消え、私は焦り出した。

止まっているボールに何故当たらない。考えれば考えるほど焦って来た。何回空振りしたか覚えていない。

未経験の私をいきなりゴルフ場に連れ出したエトウ南海堂の江藤社長は何のアドバイスもくれなかった。

彼は涼しい顔で

「この経験で境さんはゴルフが上手くなる」

そう言って励ましてはくれた。

あれから四十八年、私は今もってヘボゴルファーで、最高位のハンディが十八で止まったままで終わりそうだ。

私はこのボロボロのゴルフデビューでロスした時間を取り戻すべく急ぎ、宮崎の西村楽器に向かった。

一位・宮崎交通、二位・宮崎放送、三位・西村楽器、これは当時地元の若い女性の人気就職先ランキングだった。

ピアノの売上げ西日本一と言われた地元の名門、西村楽器は南国情緒溢れるメインストリート橘通りのほぼ中央にあった。総ガラス張りの店はさすが名門に相応しい店構えだった。

早速、私は創業者池田社長の待つ社長室に通された。

「宮崎は暑いでしょう?冷たいもので身体を冷やしてください」

大分でのゴルフデビューで西村楽器への訪店が大幅に遅れた申し訳なさもあって私は大量の汗を流していた。

それを見て池田社長は私に冷えたコップの飲み物を勧めてくれた。私は御礼を言い、慌ててそれを一気に飲み干した。

これが実はキンキンに冷えた焼酎だった。

私は生来、酒は好まず体質に合っていないと思っている。一度、酒を飲んで身体に蕁麻疹が出たこともあって、それ以来お付き合いで少々飲む程度にしていた。

キンキンに冷えた焼酎には匂いが少なく、一気に飲めたが迂闊だった。

私は急性アルコール中毒で倒れた。

医者の治療を受けた後、担当セールスマンの常宿、竹荘で結局丸二日寝込むことになった。

宮崎ではどこの店を訪ねても焼酎を勧められ、九州で営業を担当する限り酒を飲むことも必要なものだと認識した。

大分でゴルフ、宮崎で焼酎の洗礼を受け、北九州営業所での仕事はスタートした。

小倉に住み始めて間もなく、長女が誕生し恵子と命名した。

大阪豊中の新婚当時の貧乏暮らしから抜け出し、二人の子供に恵まれ、憧れの営業第一線で働ける喜びに充分すぎるほどの幸せを感じていた。

私には親から貰った五体満足な身体がある。働くぞ!人生これからだと意気込んだ矢先、長男が大怪我をした。

大阪万博見学に行くために嫁は二人の子供を連れ、岸和田の実家に里帰りをしていた。

嫁の実家は自宅で自営業を営み、住宅の建物続きに工場があった。事故はここで起きた。

長男が工場の機械の歯車に右手人差し指を挟まれた。

嫁から連絡を受け、私は大急ぎ空路大阪の病院に駆けつけ、やっと手術に間に合った。

四歳児の人差し指はあまりにも小さく、その上骨は歯車で粉々になっている。

医者からは指を切断する方法の説明を受けた。

麻酔で眠っている我が子の手をじっと見ていたが、切断手術の決心がつかない…。

結果はどうあれ、指を残してほしくなった。私は必死で先生に頼み込んだ。

手術が始まった。豆粒にも満たない子供の指の骨を繋ぐ手術は難しく、何回も何回もやり直し、これ以上は…と医者も家族も納得するまで手術は六時間も掛かった。

その日から入院している長男を昼は嫁が看病し、夜は私が代わって看病した。

私は仕事を終え、夕方の飛行機で頻繁に小倉から大阪の病院に通った。

私は生れて間もない長女を私の熊本の実家に預けることにし、連れて行ったが、長女は慣れない環境に怖がって泣き叫んだ。

折角、預けに来たのに私は連れて帰りたくなったが、お袋は強かった。火が付いたように泣き叫ぶ子どもを無視し

「走れ!走って帰れ!」

と、私の背中を押した。

私は走った。走りながら背中で聞いた長女恵子の泣き叫ぶ声は、この年齢になっても鮮明に耳に残っている。

私には父親らしいことをした記憶はこれひとつしかない。

長男の怪我が落ち着くと私はまた次の幸せを求めて、嫁に家事を丸投げし、昼夜問わず働き続けた。

「人様の倍、働け!」

父親の言葉を胸に秘め頑張った。

大怪我をした長男も今では二人の娘の良き父親として頑張っている。手術をした人差し指は少し曲がっているが…。

親の願いを聞き入れ執刀してくれた大阪の医者の先生には感謝している。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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