【第41回】流浪のサラリーマン時代 営業所編⑩「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.5.8

天国から地獄への転勤

どこに隠してあったのかと思われるほど、レコード店からCBS商品の返品は続いた。処理しても処理しても、長年に亘りこびり付いた垢のように返品はなかなか終わらなかった。

やっとCBS商品の返品が落ち着いて来たと思った矢先、今度は他の洋楽レーベルが次々と抜けコロムビアは国内レーベルのみの純国産メーカーになった。

ひと昔前までのコロムビアはダントツの販売シェアを持っていた。レコード商業組合との宴席ではいつも床柱を背に、老舗の誇りがあったものだが…。そんな良き時代は終わった。

栄枯盛衰は世の常ではあるが、私にとっては何故やっと念願の営業デビビューが出来たこのタイミングなのか…。そんな思いが強くあった。

もう売るものが無く、会社の株をレコード店に勧めては集金していた。情けない北九州での営業経験になった。

日立製作所がコロムビアの経営に参入し始めたのは、それから間もなくしてからのことだった。

社内の合理化が始まった。コロムビアブランドの家電製品は音響製品を除き全て姿を消して行った。

レコード部門にも合理化の波は押し寄せて来た。販売網の整備も急ピッチで進められ、それに伴い営業所の統廃合が行われた。

北九州営業所は福岡営業所と統合されることになった。

閉鎖された北九州営業所の残務処理が終わり、私は一時、福岡営業所の次長になったがすぐ、川崎工場の保税倉庫に異動辞令が出た。辞めろと言わんばかりの異動だった。全社的な人員の調整が行われ始めた。

全国で最小の営業所とは言え、長年の夢だった営業最前線の所長になれたのに…。天国から地獄に突き落とされた思いがした。アルバイト時代の倉庫の仕事に逆戻りすることになる。又々人生の岐路に立った。

だが私は諦めなかった。チャンスは必ず来る。真面目にコツコツ働いていれば、営業の第一線に戻れる日がまた必ず来る。それを信じ、砂細工のプライドなど捨て、地にしっかり足を付け歩いて行く選択をした。

人は上を見ると裕福な人達が見え、下を見ると意に適わぬ暮らしの人達が見える。私はこの機会に自分をよく見つめ、身丈の幸せを求めることにした。

夜明けに弁当を持って家を出ると、駅までの二十分の道を歩いた。職場に着くと貸与された作業服に着替え、帽子を被り、毎日倉庫の中で働いた。

この時私は三十一歳。家には嫁と六歳と二歳の子供が居た。

川崎工場の保税倉庫は東急東横線の大倉山から歩いて五、六分の所にあったが、歩道は無く、車道は舗装もされておらず、狭くて危険な通勤路だった。

雨が降り道路の水溜まりを車が通る度、通行人が一斉に傘を倒して盾にし、泥水を避けていた光景が今は懐かしい。

この大倉山の倉庫を私は東京での原点の地と決め、今でも時々、大倉山を訪ねるが、そこにはもう既に倉庫は無く、毎日通った通勤路も綺麗に舗装され洒落た商店街に生まれ変わっている。

当時倉庫の勤務時間は朝八時から夕方四時までだった。夏の退社時間はまだ陽射しも強く、帰りの電車も空いていた。

私はそんな余った時間を利用して、現在行っている倉庫の荷捌きの仕事を機械化出来ないものか…と考え、本屋で初心者向けの在庫管理の本を買って勉強を始めた。

面白かったし、興味も湧いてきた。そしてその年の正月休みを利用して、在庫管理の機械化をレポートにまとめ部長に提案した。

当時の商品管理部長は隈本さんと云う真面目を絵に描いたような人だった。私はこの人に助けられた。隈本部長は私の提案書を丁寧に読んでくれた。

本社の部長会から役員会へと私の提案書は検討され、在庫管理の機械化が実施される運びとなった。

早速コンピューター導入チームが結成され、理工系の若いメンバーが五人、招集された。

私は大倉山の倉庫から、川崎工場に移され、チームリーダーとして働くことになった。

俄かに出来た我々のチームには使用できる部屋がなく、取り敢えず工場の屋根裏の物置部屋が与えられた。

天井は無く、直接スレート貼りの屋根で夏の暑さには閉口した。バケツに大きな氷を入れ涼を取った。

私にはコンピューターに関する専門知識は全く無く、在庫管理の理想を言っていただけだったが、それを若いメンバーが具体的な設計に落とし込んだ。

今でも不思議なのは、この時既に日立の傘下に入っていたのに、導入されたコンピューターは日立のものではなかった。センチュリーと云う会社のものが採用され、その会社からも技術者が派遣されて来た。

在庫管理のコンピューターシステムは丸々一年かかって稼働した。

従来の手法に比べ効率は良く、無駄な在庫は一掃され莫大な利益を生んだ。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

 

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