【第43回】流浪のサラリーマン時代 営業所編⑫「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.5.10

営業所長は何でも屋

昭和四十九年春、私は横浜営業所の所長になった。神奈川県全域と静岡県の大井川以東が担当エリアだった。

このエリアにはコロムビア若羽会の会長の井上さん、副会長の木曽さんと栃沢さん、そして日本レコード商業組合のドン、矢島さんがいた。営業所長として腕を試される地域だった。

加えてセールスマンが一番恐れた沼津の米山蓄音機店も担当エリアに入っていた。ここの婿である若社長は見るからにヤンチャで怖い顔をしていたが、それはそれで店は活気があり、繁盛していた。

彼の最大の欠点は口より手の方が早く、各社のセールスマンは大なり小なり洗礼を受けていた。

当時コロムビアのセールスマンが若社長に二階から蹴り落とされた事があった。

私は報告を受け、早速猛抗議をしたが謝るどころか蛙の面に小便、全く効き目がない。そんな怖い若社長と私はある事が切っ掛けで急に仲良くなった。

米山蓄音機店の先代社長が亡くなった時のこと。葬儀の前日になって若社長から電話があり、先代が一番親しかったコロムビアの望月社長に弔辞をお願いしたいと言って来た。

この婿の面白いところはものを頼む時は実に可愛い猫撫で声で電話をして来る。

私はその旨、望月社長に報告したが、今日の明日の話で全く時間が無く、社長は渋った。

私はこの機会に米山に対し点数を稼ぐため、どうしても望月社長にひと肌脱いで頂く必要があった。

渋ってやる気のない社長を説得した。望月社長は条件を出した。それは私が和紙に毛筆の弔辞を用意することだった。

「先代社長に一度も会ったことのないお前に弔辞は書けまい。丁重にお断りして来い」

望月社長の魂胆は見えた。

私は出された条件は必ず守る約束をした。

早速米山の若夫婦に取材を申し込み協力頂いた。

「若社長、もっと早く言ってくださいよ」

軽いパンチを出しておいた。

逃げ腰の望月社長を逃がさないためには、出された条件に応えるしか方法は無い。私とセールスマンは伊豆長岡の温泉旅館を予約した。

徹夜覚悟で弔辞を書くことに決めた。

この追い込まれた状況の中で何故温泉宿なのか…。その時二人は弔辞を甘く見ていた。

私達は必要なものを全て買い込み、伊豆長岡に向かった。

先ずはゆっくり温泉に入り、夕食を済ませてから始めよう!計画ではそれでも夜中には仕上がる予定だった。

伊豆長岡の湯は二人の緊張を充分解いてくれた。お決まりのコースだが、湯上りに冷たいビールを一杯やって部屋で夕食を取った。芸者を一人呼んだ。

宿の浴衣に着替え、芸者の酌で呑み始めた頃までは、まぁなんとかなると悠長に構えていたが、気づけば時計の針は十一時を廻っていた。

相方はうとうと眠り始めている。

「オイ!起きろよ!」

冷水で顔を洗い、取材メモを開いたものの私のペンは全く進まない。

私が原稿を書き、相方がそれを清書することになっていたが肝心の原稿がうまく書けない。時間だけがどんどん進む。

この状況になって、やっと事の重大さに気付き始めた。

やるしかない!取材ネタに感情を加え、多少オーバーに書き始めた。

隣で相方が毛筆で和紙に清書を始めたが、これがまた字がヘタでどうにもならない。私も毛筆の自信はなかったが、結局自分で清書もすることになった。

完全に仕上がった時には部屋に朝日が射し込んでいた。

出来たばかりの弔辞を持って、JR沼津駅で私達は望月社長を出迎えた。

時間はあまり無く、駅前の喫茶店で社長は私が作った弔辞に一度目を通しただけで、急ぎ葬儀会場に向かった。

葬儀が始まった。私が作った弔辞を手に持って望月社長は立ち上がった。

私はドキドキして見守った。社長は一度しか読んでいない弔辞を一字一句確認しながら注意深くゆっくり読んだ。これが良かった。怪我の功名である。

惜別の言葉一言一言が心に沁みて参列者からすすり泣く声が聴こえた。望月社長の役者ぶりがまた良かった。

社長は神楽坂界隈の芸者衆の間では知らない人はいないほどの遊び人だった。私もよくお供をしたが、お座敷芸が得意で、数ある中でも座頭市の芸は秀逸で芸者衆から大喝采を浴びていた。

このキャリアが葬儀の場で発揮され、社長の弔辞は大成功した。私達は社長に褒められたし、沼津米山の若社長にも大感謝され、その後の商売に繋がった。

このように出先の所長の仕事は商品販売だけに留まらず、土地土地のイベントでの挨拶や冠婚葬祭への出席など幅広い。

悪戦苦闘した伊豆長岡の宿での徹夜話は今思い出しただけで冷や汗が出る。

名役者の望月社長はもういない。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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