【第44回】流浪のサラリーマン時代 営業所編⑬「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」
人生の節目を過ごした横浜
「こんな若い人に任せて大丈夫か?横浜は難しい所だよ…」
昭和四十九年二月、私は上司の営業部長に連れられ、横浜マリウスの木曽専務に所長就任挨拶に伺ったときに受けたひと言だった。
当時三十七歳だった私は木曽専務のことを噂通り怖い人だと思った反面、歯に衣を着せぬ人柄にかえって誠実さを感じた。
次に訪ねたキクイチの井上社長は派手好みの社交家で、話も上手く車は常に外車を愛用する見栄っ張りのところがあった。
彼は私の所長就任を喜んで受け入れてくれた。
何もかもが対照的なこの二人は当時会社が協力に進めていた販売戦略の柱、若羽会の会長と副会長だった。
私は着任直後からこの二店に毎日のように出掛けることになった。
特にキクイチは当時ダイエーSC(ショッピングセンター)へ支店出店計画を進めており、コロムビアも全面的な支援を行っていたが、支店舗の数は増えても売り上げ予算はことごとく外れ、損失が膨らんでいた時期だった。
この状況に本社内でもキクイチの事業方針に反対する人も出始め、私も支援の限界を感じていた。
若羽会発足当初から会長をお願いして来た経緯があっての支援ではあったが、元々キクイチには旗艦店と云われる店舗は無く、砂上の楼閣の危うさは常にあった。
そのため私は毎日のように出向いては実績のチェックをしながら不採算店の撤退や出店条件の見直しなど、その都度井上社長に提言したが、何ひとつ応じてくれず、逆に地方都市にまで出店を計画するに及び、さすがのコロムビア本社も支援の中止を決めた。
その日も井上社長との打合せのため訪店すると、来客中だったが、彼は私を部屋に招き入れた。
紹介されたお客の名刺には相鉄不動産部部長の肩書があった。
いよいよ井上さんも個人資産の整理を始めたのかと思い一瞬ホッとしたが、それも糠喜びだった。
当時、相鉄は那須に別荘を開発し販売キャンペーン中で、新星堂の宮崎社長はじめ、業界の主だった人が数人購入していた。井上社長にも勧めに来ていたことが判った。
キクイチの業績を考えると別荘どころではなかったが、販売業界の仲間が那須に別荘を持ったと聞いて、またまた井上さんの見栄の血が騒ぎ始めた。相鉄の部長にあれこれ質問してはニコニコしている井上さんに私は目で、
「ダメですよ」
と合図を送った。
「わかってるよ」
井上さんも目で答えてくれたので私は安心して帰りの挨拶をし、立ち上がった。その時、
「境さんはどちらにお住まいですか?」
相鉄の部長に聞かれた。
「相鉄沿線の瀬谷から通ってます」
と答えたら彼はすかさず
「ご自宅ですか?」
と来た。
「いえ、会社の借り上げ社宅です」
私が答えると、その部長はカバンから別荘のパンフレットとは別のものを取り出した。
相鉄が売出し中の瀬谷の新興戸建住宅のパンフだった。
そこにはサラリーマンになって夢に見た憧れの一戸建て住宅の写真がレイアウトされており、私の目を釘付けにした。
「瀬谷の戸建て住宅は
人気があって完売しましたがミサワホームのモデルハウスが一軒だけ残っています。井上さんのご紹介でもあり、特別価格でいかがですか?」
小倉から川崎工場に転勤して来たとき会社が借り上げた和室二間と台所の小さな社宅に親子四人で暮らしていた。
子供も地元の小学校に通うようになり、子供部屋も欲しいと考えていた私の気持ちを超格安物件の誘いが直撃した。
かと言って、私に貯えなど全く無く、しかもこの場は井上さんにブレーキをかけている最中でもあり、折角の話だったが断った。
その部長は諦めなかった。次にこんな提案をして来た。
那須の別荘と瀬谷の住宅を抱き合わせて購入するならもっと価格を抑えられるがどうか?別荘の価格も前の提示に比べ二百万円安くなっていた。
井上さんはそれを見て
「別荘で安くなった分も瀬谷の住宅から差し引いてください」
と言った。
土地五四坪にモデルハウスと言えども五LDKの新築の家が建って二千万円になった。
これは安い!このチャンスを逃したら一生家など買えないと思った。私はもう一度パンフを見直した。
住宅地の中を境川が流れ、すぐ近くに境橋と云う名の橋があった。
私の名前の〝境〟が近所に二つもある。この奇遇が私の心を捕らえ、購入の決め手になった。
結果、井上さんが那須の別荘、私が瀬谷の住宅を同時に購入することになった。
キクイチ井上社長に対し、ブレーキ役の私は思い切りアクセルを踏んでしまった。
その夜、帰宅して嫁に家を買ってきたので明日見に行こうと言った途端、嫁はキレた。
だが今振り返ると、この瀬谷の住宅は我が家に沢山の福を呼び込んで来てくれたように思う。
---つづく
著者略歴
境弘邦
1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。