【第49回】流浪のサラリーマン時代 本社編③「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.5.20

巨匠 船村徹逝く 先生との思い出

久しぶりに『新宿情話』を聴いた。とても悲しく聴こえた。八十四歳で旅立たれた船村先生の御遺体のそばで香田晋が先生のご長男蔦将包さんのギター一本で歌ってくれた。

私は彼の歌に胸が熱くなった。『新宿情話』は私と演歌との出会い頭に聴き覚えた歌だけに、ほろ苦い思い出がいっぱい詰まっている。

昭和五十三年、私は社内異動で演歌制作グループに移った。不慣れな職場で誰一人話し相手も無く、心細くて毎晩のように中村一好にくっ付いて新宿の街を彷徨っていた頃に覚えた歌だった。

新宿ゴールデン街のとある店の古びたジュークボックスで、私はこの歌を聴いていた。店の名前は覚えていない。

客が出入りするとき、ベニヤ板の壁に身体を擦り付け蟹歩きで入っていた記憶が残っている。そんな狭い店の一番奥にジュークボックスはあった。

私はこの歌の二番の歌詞が好きだった。

 

〽東京は広いから

親も故郷も

知らない人が

ヒロ子の他にも

いっぱいいるさ…

 

「親も故郷もあるあんたは幸せよ。ここに来る人はみんな寂しいのよ。あんたも負けちゃ駄目よ。弱音を吐くんじゃないよ」

店のママによく叱られた。

思えば熊本の実家を飛び出し、幾度となく挫折を繰り返し、今又再び人間の吹き溜まりにいる私に、この歌は戦う勇気を蘇らせてくれた。

この歌が猪又良作詞、船村徹作曲であることを随分後になって知った。

二人ともお酒が大好きだと聞き、一升瓶をぶら下げて浅草の猪又先生を訪ねたが、さすがに船村先生を訪ねる度胸はなかった。

船村先生にはキラ星のように沢山の名曲があるが、何故かこの『新宿情話』は私の心に棘のように刺さって抜けない。

二月二十日、藤沢の先生の自宅での仮通夜で久しぶりに心の棘に触れた思いがした。

 

あの事件は昭和五十九年に入って起きた。

当時、美空ひばり担当ディレクターの中村一好君と都はるみのスキャンダルが発覚して、私はひばりさんに上司として厳重注意を受けた。

ひばりさんは中村君(私は一好と呼んでいた)の制作手腕を高く評価していたが、男としての生き方に疑問を持ち始めていた。いよいよ決断を下す時が来ていた。私は断腸の思いで一好をひばり担当から外すことに決めたが、さて後任に困った。

社内にディレクターと名の付く人は沢山いるが、美空ひばり担当となるとなかなかいない。常に完璧を求めるひばりさんと四つ相撲の取れる人は見当たらず、ひと月が過ぎていた。

新曲のスケジュールが迫っていた。えい!ままよ!なんとかなる。無謀にも私自身がディレクターを買って出た。仲間の心配をよそに早速ひばりさんと打合せを始めた。

演歌本流の作品に方向を決め、詞を石本美由起、曲を船村徹の両巨匠に作品を依頼し、了承を取りつけた。四十六歳のディレクター一年生としては好スタートが切れたと思った。

次にひばりさんと両先生との打合せを兼ねた食事会を計画した。場所は青山にあるしゃぶしゃぶの店“一心”に決めた。

私は食事会当日、準備のため早めに店に入った。準備と言ってもポイントはひとつ。ヘビースモーカーの船村先生の席をどこにするかだけだった。

ひばりさんは煙草が大嫌いだった。当時、私も一日に二箱以上吸っていたが、先生はそれを遥かに越える量を吸っていた。

私の場合、ひばりさんの仕事についた日から会社の掟に従い、ひばりさんの前では禁煙は当たり前。煙草の匂いすらさせないよう気をつけていた。

私は徐々にそれに慣らされ我慢出来たが、先生に会社の掟を当てはめる訳にはいかず困った。

結局、八畳ほどの和室にあるテーブルの奥の席に石本先生とひばりさんが座り、失礼は承知で入口近くの風通しの良い席に船村先生と私が向き合って座ることに決めた。

四人の顔が揃った。ひばりさんはここ“一心”の常連らしく、店も心得たもので部屋には灰皿の用意はない。しかも禁煙を承知していたのか?船村先生のポケットにもテーブルの上にも煙草は見当たらない。

さすが巨匠船村徹も天下の美空ひばりとの打合せは別格なのかとホッとした時、

「先生!遅くなりすみません!買ってきました」

新しい煙草を三箱持ってマネージャーが部屋に入って来た。

先生は満足した顔で

「ウンウン」

と頷くと大声で

「お姉さん!灰皿」

と言って、一箱目の煙草の封を切った。余計なことに

「君も煙草吸っていたな」

先生は私がスモーカーであることを思い出し、

「お姉さん!灰皿ふたつ!」

と言い直した。

これはまずいことになって来た。私は脇の下に汗を感じながら横目でひばりさんを見ると、既に不機嫌になっていた。

ビールがお酒に代わる頃には船村先生の手元の灰皿に吸い殻の山が出来ていた。

ひばりさんが突然席を立った。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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