【第48回】流浪のサラリーマン時代 本社編②「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.5.17

名作『花街の母』大ヒット秘話

「それは無理です。いくら境さんの頼みでもここ暫くプレスの無い『花街の母』をしかもいきなり三万枚も作れなんておかしいでしょ!」

私は彼に金田たつえ夫婦のキャンペーン苦労話をした。

「それなら品切れさせないように、暇なときに少しずつ作り溜めておきますよ」

私は彼が言っていることは充分理解できた。しかしそれでは駄目だ。

私はこれから実行しようとする戦略を説明した。全くと言っていいほど売れていないものを大量に出荷することで関心を持って頂く。そのためバラ売りはせず、二十枚入りの箱単位で委託出荷する。もし、返品になっても箱単位だと再利用できる。そのうちに作品を聴き直す店員さんが出て来たら成功だ。宣伝費のかけられない商品は出荷することが最大のプロモーションになる。大掛かりな店頭プロモーションを狙った。

「そんなにうまく行きますかね」

「私にも全く自信はないが先ず動かそうよ」

これ以上荒っぽい手法はない。彼は渋々プレスを引き受けた。

各営業所にもそのことを伝え、地域の主力店に貸し出しをお願いした。但し箱単位での貸し出しを念を押して頼んだ。

予想はしていたが、販売店から猛反発があり、貸し出した商品のほとんどが返品されて来た。

やっぱり駄目か…。そんなに甘いものではないと思ったが、販売課長の私の立場で他に何が出来るか…。何もない。

宣伝部と掛け合ってみたが、発売から五年もたったあまり実績の上っていない作品にかける予算は全くなかった。

よし!もう一回同じ事をやろう!今度は多少枚数を減らし田舎の店を中心に貸し出しをしたが、これも見事に空振り…。

川崎工場の仲間に無理に頼んでプレスしてもらった『花街の母』は営業所と販売店の間を二往復したが定着しなかった。

他に打つ手はないものか思案しても答えはなかった。

そんな手詰まり状態の私の前に救いの神が現れた。

当時文化通信に味岡さんという年配の記者がいた。髪をオールバックにしていて個性の強い人だと日頃から思っていた。新聞記者が営業部に来ることは非常に珍しかったが、彼は例外でよく販売課に顔を出していた。特別に用事がある訳でもなく、いつも世間話をして帰る人だった。

その日も味岡さんは私のところにやって来た。ちょうど私の元に金田たつえのキャンペーン先から手紙が届いていた。夫の梶原社長からで、中身はいつもの売上げ報告とその日に限り夫婦の悲壮感溢れる想いが綴られていた。手紙の最後に夢を追い続ける我々夫婦を親に持つ子供が不憫だとも書かれていた。

私と味岡さんの話は必然的に『花街の母』になった。机の上のこの手紙を果たして見せて良いものかどうか迷いに迷ったが味岡さんに見てもらってプロモーションのヒントが欲しかった。

私は手紙を彼に渡した。味岡さんは手紙を真剣に読んでくれた。

「この手紙をネタに私に記事を書かせてくれませんか?」

それは手詰まりの今の私にとって大きな大きな提案だった。

「ありがとうございます。是非お願いします」

味岡さんが手掛ける文化通信の記事は地方新聞社に配信される。

当時文化通信の記事は内容にもよるが最大で二十五社に配られていたが、この『花街の母』の記事は地方紙十六社に掲載されることになった。

藁をも掴む思いでいた私は味岡さんから掲載される地域を聞き出し、その地域の販売店に新聞掲載を知らせる手製のチラシを付けて再々度商品の貸し出しを実施した。

大都市を除く地方十六地域にこの記事は掲載された。大ヒットを夢見る金田たつえ家族全員の汗と涙のキャンペーン物語は読者の涙を誘った。

「課長!営業所から七万枚来ました!」

「馬鹿言え!三万枚しか出していないものがどうして七万も返ってくるのか!」

「返品ではありません。注文です!」

「えー!本当か!」

大声で泣きたくなった。私は心の中で文化通信の味岡さんに手を合わせた。

来る日も来る日もキャンペーンに明け暮れ、折れそうになった心を夫婦で励まし合い、五年もの風雪に耐え、全国くまなく根を張った夫婦の我慢の木に一念通天の大輪の花がついに咲いた。

そして昭和五十四年大晦日、第三十回NHK紅白歌合戦の晴れ舞台で、金田たつえはこの日まで支え続けて来た多くの人々に『花街の母』の熱唱で感謝した。

数日後、味岡さんと居酒屋で祝杯を上げたが味岡さんは目を細め

「あれほど見事に嵌った記事も最近では珍しい」

と喜んでくれた。

その後暫く『花街の母』は万単位の注文が続き、三百五十万枚の大ヒットになった。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

関連キーワード

この特集の別の記事を読む