【第51回】流浪のサラリーマン時代 本社編⑤「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.5.22

美空ひばりに聴かすデモテープを自分で録音

通常、作曲家から頂く譜面には自ら歌って作品のイメージを表現したデモ音源(デモテープ)が付いている。

やっと頂いた船村先生の封筒の中には譜面が一枚入っていただけで、デモテープは入っていない。

「先生!デモテープが入っていませんが…」

「何!デモテープ?僕はそんなもの作ったことがない」

嘘言え!これもひばりさんに打合せの席で禁煙パイポを渡されたことへの仕返しかと思い

「わかりました。でも私は譜面が読めないので、特別例外で作って頂けませんか?」

とお願いしたが

「君は部長だろ!この譜面が一枚あれば大丈夫だ」

又意味不明のことを先生は言い出した。

部長であろうが、社長であろうが読めないものは読めない。まして、子供の頃から音楽が大の苦手だった私が譜面を読むなど天地がひっくり返っても不可能なことだった。

その上、先生から手渡された譜面をよく見ると、全体が黒く見えるほど音符で埋め尽くされ、音楽の教科書に載っているクラシックの楽譜に似ている。じーっと見ていると気が狂いそうになった。

あの時のパイポの仕返しもここまでやるか?あとは野となれ山となれ。努力してもダメだと悟り、他の方法を考えることにした。

この業界には譜面の初見が出来る人は沢山いる。先生に代わって誰かにデモテープを作ってもらう方法がある。誰かいるはずだ。

当時我々の仲間が毎晩のように集っていた新宿歌舞伎町のスナック“すの字”のピアノの先生、鈴木征一氏に私は狙いをつけた。

彼はかつて作曲も手掛けたこともあり、デモテープ作りには適任だと考えた。

そう考えると先ほどまでの悩みが馬鹿馬鹿しく思える。私の乗ったタクシーは既に新宿方面に行く先を変更して走っていた。

いつもなら我々の仲間で賑わうこの店も、その日は仲間は一人もいなく、客は初老の夫婦とサラリーマンのカップルの二組だった。

お目当ての鈴木氏は、めったに一人で来たことのない私を不思議そうに見ながら客の歌にピアノ伴奏をつけていた。

客のリクエストにひと区切りつけた彼が私の席にやって来た。

私は早速、今日までの船村先生とのやり取りの要点を説明し持参した譜面を見せた。

さすがにピアノの先生だけあって一見すると

「この譜面にはコブシが書き込まれていますね」

「ああそうですか…」

「それを除けばそんなに難しい曲ではありませんよ」

と言って、私を安心させた。

そして彼の提案でお客が帰った後、この店でデモテープを作ることにした。

私は今夜は仕事でこの店にいることを自覚し、薄い水割りを時間をかけて飲みながらお客の帰るのを待った。

最後の初老の夫婦が帰った時は日付も変わり、午前一時になっていた。

やっと二人になった私達は、早速五線紙にメロディーだけを抜き出しレッスン用の譜面を作った。

船村先生自筆の黒く見える譜面に対し、こちらは隙間だらけで白く見えた。

鈴木先生は出来たばかりの譜面でピアノを弾きだした。なかなか良いメロディーだと思った。船村先生の特色が実に良く出ている。

ピアノで何回か弾き馴らし、いよいよデモテープの録音をするときになって、鈴木先生は自分の声で録ることを拒んだ。これを聴く相手が天下の美空ひばりで、恐れ多くて歌えないと言う。

ひばりさんに届ける約束は明日。後がない。この場にいるのは彼と私しかいない。

「よし!やるか!」

私が歌って録ることにした。恐れを知らぬ素人の判断だった。

私は鈴木先生のピアノで約一時間、レッスンを受けた。

彼は商売がらレッスンが実にうまい。私の歌を誉めてくれる。

「いいね!いいね!」

彼は私に素質もあるし歌のセンスがいいと言った。私は悪い気がしないし、段々その気になって来た。やれば出来る!怪しい自信みたいなものが湧いて来た。

「ヨシッ!始めよう!私が録音する」

ラジカセに向かって二度歌った。

録ったテープを再生して聴いてみると我ながらよく出来ている。鈴木先生は音程も良いし完璧だと言って太鼓判を押してくれた。作業が終わった時は午前三時を過ぎていた。

私は生れて初めての自分の声が入ったカセットテープを大事に抱え、いつもの六本木のねぐらに帰った。

翌日、私はひばりさんの公演先、静岡県沼津市へ向かった。昨夜作ったばかりの新曲のデモテープを公演の昼の部と夜の部の休憩時間を利用してひばりさんに聴いて頂くことになっていた。

楽屋を訪ねるとひばりさんはスタッフと麻雀を楽しんでいたが、私の到着を待っていたのか手を止め、早速ラジカセにテープをセットした。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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