「運命の円通寺坂」 周防社長と長山洋子編①【第65回】
運命の円通寺坂
赤坂はその名の示す通り坂の街である。この坂の街の頂上にコロムビア本社とバーニングプロダクションはあった。両社は歩いて二、三分の距離にあった。
平成になってコロムビアは移転したが、バーニングは当時のまま今もある。
バーニングを訪ねる人が必ず通る道がある。青山通りと乃木坂通りを結ぶこの道は、コロムビア本社が無くなった今でもコロムビア通りと呼ばれている。
二十年近く本社に勤務した元社員の私にとっては通る度に、懐かしい思い出とささやかな誇りを味わえる道でもある。
青山通りからは坂の形が薬研(漢方薬の薬種を砕く舟形にくぼんだ器具)に似ている薬研坂があり、乃木坂からは江戸時代、この道を上る荷車の後押しをする人夫に三分払ったことから名付けられた三分坂がある。
他にも一ツ木通りから歩くルートに円通寺坂や稲荷坂があるが、いずれの坂も残り百メートルがもの凄い急勾配で大雪の時は人も車も通行出来なくなるほど自然の要塞になっている。
平成四年の秋、私は数ある坂のひとつ円通寺坂の下でバーニングの周防社長とバッタリ出逢った。
既に私がコロムビアを辞めて半年が過ぎていた。
その当時、周防社長の住まいは近くにあったらしく今では考えられないが社長は時々歩いて事務所に行っていた。
「ご無沙汰しております。その節は大変お世話になりました」
「いやいや。ところで独立して仕事はうまく行ってますか?」
あの怖かった社長が心配顔で聞いてくれた。私はたった今、銀行に借金の申込みに行ったが全く相手にされず気弱になり、人恋しさにかつての仲間のいるコロムビアに向かって歩いている時だった。
「今、銀行に借金に行った帰りなんです」
「どこの銀行ですか?」
「コロムビア時代の第一勧銀です」
「どうですか?見込は?」
「恥ずかしい話ですが全く相手にしてくれません」
仕事の実績もなく、その上運悪く当時、暴力団が〝組〟とか〝会〟から株式会社に名前を変えていた時期に、株式会社ボスでは印象が悪かった。
社名の由来はBooking Office Sakaiの頭文字を採ってBOS(ボス)ではどうかと仕事仲間の中村一好が提案してくれ、作詞家の吉田旺さんが毛筆でロゴを作ってくれたもので決して怪しい会社ではなかったが、銀行の担当者には仕事も決まっていない芸能界の怪しい会社に思われてしまった。
「今はどこの銀行も渋くて貸しませんよ。うちも困ってます。まぁ!頑張ってください」
周防社長と円通寺坂下でそんな立話をして別れた。
私はその頃、独立はしたものの収入は全く無く潮時を考えていた。なかなか馴染めない東京での暮らしより、熊本の実家に帰って畑仕事で出直す考えが芽生え始めていた。
しかし家族の反対もあり決心がつかず悶々とした日々を送っていた。
周防社長から電話があったのは、円通寺坂で出逢ってから十日以上過ぎた頃だった。
「会社に来ませんか?待ってます」
私はいつも汗を流し歩いて上がる三分坂をタクシーで急いだ。
バーニングプロには当時も社長室は無く、社長は事務所の一番目立つ所に座っていた。
挨拶もそこそこに、私は菓子袋を手に下げた社長に付いて別の部屋に行った。
「取り敢えず、これ使って下さい」
社長は持っていた菓子袋を私の前に差し出した。
私は先日の立話を思い出しピンときた。
「社長!私には返す当てはありません。お借りする訳にはいきません」
「まぁ!いいじゃないですか!今、困ってるんでしょ!」
確かに困っていた。南青山にあった市川昭介音楽事務所の中に机二個分のスペースを格安家賃で借りていたが、その家賃すら危うい状態だった。正に崖っぷちに立っていた。
かつてコロムビアの看板を背負って、役職の名刺を使っていた頃の信用と今の立場との落差を痛感していた。
当たり前の事だが、会社を辞めた時から過去の人になる。現役時代は一日何十人という人と会っていたが、今は誰も訪ねて来ないし、電話も掛かってこない。
あれほど業界の人間関係に疲れていたのに、今では人に会いたくて出掛けて行ってはお金を使う。全く自分を見失ってボロボロになっていた。
業界人として商品価値も無く、年齢からも賞味期限が過ぎたこの私を社長は拾ってくれるのか…。
目の前の菓子袋を見ていると涙が出そうになった。よし!もう一度東京で頑張ろう!そして周防社長の背中を追おう!人の倍働こう!菓子袋を前に誓った。
「社長!私に仕事を下さい」
「考えておきますから、取り敢えずこれは持って帰って下さい」
社長は部屋を出て行った。菓子袋はズシッと重かった。
その時、私に今日のように恵まれた第二の人生が来るとは思ってもみなかった。
---つづく
著者略歴
境弘邦
1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。