「豪華賞品のゴルフコンペ」  周防社長と長山洋子編③【第67回】

2019.6.13

豪華賞品のゴルフコンペ

「細川たかしデビュー十五周年を記念して日頃お世話になっているマスコミの人達のゴルフコンペをやりたい」

周防社長から提案があった。提案と云うより〝やるから協力しろ〟である。二百人前後の御招待で既にゴルフ場の手配がされていた。

いつもながらやる事が早い。我々はこのスピードについて行くためにはいつも頭の中で走っていなければ追いつかない。

「社長!費用のことですが、ゴルフのプレイ費とゴルフ場での十五周年感謝のパーティー費用、それとコンペの優勝賞品をコロムビアに負担させてください。勿論優勝賞品はうちの家電商品で用意します」

「ありがたいけど、それではうちは何をすればいいんだ?」

「ご招待名簿と何か面白い飛び賞をお考え頂けませんか?」

「それだけでいいのか!わかった。すぐ準備にかかる」

一ヶ月も経つとバーニングの事務所はコンペの賞品が所狭しと山積みになっていた。

一番目についたのが当時ゴルファーに最も人気のあったピンのアイアンセットだった。国内では入手困難なため海外に行く人にお金を渡し買い集めたものらしい。他に新発売のDVDプレイヤーが山積みされていた。

直前になって社長が考える飛び賞の全貌が見えて来た。五位単位の飛び賞がピンのアイアンセット、ニアピンが全ショートホール一位から三位までDVDプレイヤー、記念賞、例えば十五周年の十五位とか当日賞だとかには何と!ロレックスの腕時計が用意されていた。

その他自転車、ラジカセなどがあったが、それとは別に参加賞として全員に、足のサイズに合わせたゴルフシューズと名前入りゴルフボールがそれぞれのロッカーに前もって入れてあった。徹底した念の入れようだった。

参加者は異口同音にこれほど豪華な賞品が出るコンペは初めてだと言っていた。

コンペ当日、周防社長は盲腸の手術とかで入院して不参加だったが、コンペの表彰式に病院から抜け出し、看護師に支えられて会場に現れた。

いかにも辛そうだったが、私の横に座り、早速コンペの成績表のチェックを始めた。

「境さん、優勝賞品が一番安いものでは困る。目録でいいから高い品に替えてくれ」

「社長!あのセパレートタイプのステレオがコロムビアでは一番高価なものです」

社長は仕方ないなぁとぼやいて優勝の副賞を自分で作った。

病院を抜け出して来ること自体、尋常ではないが賞に外れた意中の人のために予備の賞品目録を用意してくるなど、普通の人では考えられない。

社長は成績表に赤でチェックを入れ目録を私に渡す。私は渡された順位に名目を考え表彰する。

その追加表彰の数があまりにも多く、最初はゴロ合わせの賞もうまくやっていたが、終わりの方では〝何も当たらなかったで賞〟まで出した。

これほど隅々まで気配りをする社長を目の当たりにしてタレント育成の苦労の一端を見たような気がした。

コンペの翌日からこの豪華賞品の噂が業界中に広がり、週刊誌に掲載されるに至ってさすがの社長もそれ以降は自粛するようになった。

結局、参加賞、飛び賞とニアピン賞だけでコロムビアの費用負担の三倍になったと後で聞いた。

ここでも周防社長らしく我々コロムビアの申し出に対し三倍で返して来たことになった。

私はいつも社長より一歩先を考えるようにしていた。時々先走って地雷を踏んで大目玉を喰らったこともある。でも社長は常に正しいと思うことを一生懸命やる人はちゃんと見ている気がする。

私はこの原稿を七月の三連休を利用して信州の蓼科にあるバーニング山荘で一人、苦しみながら書いている。

涼しい!Tシャツ一枚では肌寒い。今日も東京は真夏日のようだ。私は贅沢だ。罰があたる。

この山荘も私が七十歳になったとき

「社長、私はこれから車の免許を取って、晩年は田舎で畑仕事をして暮らしたい」

と夢を社長に語ったら

「それなら蓼科の山荘を使え。最近誰も利用する人がいない。ちょうど良かった」

と山荘の番人に命じられた。

すぐ近くの三井の森ゴルフ倶楽部の会員権も譲って頂いたので、東京から仲間を誘ってゴルフを始めたらこれが評判になり、十年経った今では業界の夏の風物詩になっている。多い年はひと夏、百人も来ることがある。私の夏は山荘の番人として一年で最も忙しい。

生まれ育った九州山脈の山懐から千キロ以上離れた信州蓼科に居ることが不思議で不思議でならない。これも人との縁、特に社会人になって様々な人に助けられ、その時代時代の流れに乗り、一生懸命生きて来た結果だと思う。

そして私はついに親父の逝った歳を越えた。丈夫な身体に産んでくれた両親に感謝するが、責任を果たせた思いもある。

おまえは大人になったら世の為、人の為に人の倍働けと言われ続け、それを守った結果、人生最後に周防社長、長山洋子との縁が出来たと思っている。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

関連キーワード

この特集の別の記事を読む