「長山洋子演歌歌手へ転身」  周防社長と長山洋子編④【第68回】

2019.6.14

長山洋子演歌歌手へ転身

「モシモシ!ビクターの飯田と申します」

と丁寧な電話をビクターの飯田専務(当時)から頂いた。

私がまだコロムビアでアルバイトをしていた頃『ルイジアナママ』のヒットで既にスターだった人だ。私は同じコロムビアであった親しさで、彼のことをチャコさんと呼ばせて頂いている。

平成四年の初夏、そのチャコさんが大至急会いたいと言って来た。私は当時表参道にあったビクター本社に急ぎチャコさんを訪ねた。

彼はいつ会っても格好いい。私のような駄馬と違いサラブレットの品格を自然と身に付けていた。

余談だがチャコさんとはよく旅行に出掛けた。特に周防社長のご厚意で海外研修旅行に一緒に行かせて頂いたが、ここでチャコさんから私は多くを学ぶことが出来た。メチャ楽しかった。

この海外研修旅行はバーニングの樋口常務を団長に内田さん、飯田チャコさん、フジパシの二村さん、LFの鈴木さんと私の一行六名で数回出掛けた。

楽しかったし私にはとても勉強になった。ハワイ島の砂浜で…ラスベガスのミュージカルショーで…ニューヨークの街角で…所構わずチャコさんのダジャレで笑いが絶えなかった。

実によく喋り、よく笑った。今思い出しても微笑むほど楽しい楽しい研修旅行だった。私の冥土の土産話のひとつに今から決めている。

そんな旅仲間のチャコさんからの呼び出しって何んだろう…私はあれこれ詮索しながら訪れたビクターの応接室で彼は開口一番、

「長山洋子を演歌歌手に転身させたい。力を貸してくれませんか?」

と言って、当時長山洋子に関する知識に乏しい私に此処に至るまでの経緯を説明してくれた。勿論、周防社長も承知の上のことで、プロデューサーとして頑張ってくれないかと要請された。

又、ディレクターとプロモーターは社内の若手二人を付けるので演歌の教育もお願いしたいと頼まれた。

何はともあれ、今の私を必要と思って頂いたことに感銘を受けた。

「チャコさん、ありがとう。こんな身に余る話はないよ!だけどチャコさん!俺の事を買い被り過ぎだよ」

私には音楽の歴史や専門知識や体験などプロデューサーに必要なものが何も無い。あるのは“一生懸命”だけだった。

かつてのように中村や大木や宅間と言った気心の知れた仲間はいない。

ましてアイドルから演歌への転身は私にとって初めての挑戦だ。全く自信は無かった。

それに加え、現役時代商売相手として戦って来た敵の陣地ビクターに乗り込んでの仕事は気が重く不安だらけだった。

だがその一方で周防社長に助けて頂いた例の菓子袋の御恩に報いるチャンスだと思った。私が社長に繰り返し「仕事をください」とお願いしていた仕事がこれかとも思った。

腹を決め周防社長に御礼に伺った。

「演歌転身は洋子にとって、最後の賭けになるな」

社長の一言に私は熱くなった。私に課せられたテーマは長山洋子を歌手として絶対生き残らせることだった。方法は必ずある。やる気が出て来た。

長山洋子に会う日が来た。当時のビクタースタジオはロビーの奥にレッスン室があり、そこで会った。私が五十五歳で洋子が二十五歳だった。

チャコさんが洋子に私のことを美空ひばりの元プロデューサーとして売り込んだのか…洋子は身構えて緊張していた。

可愛い!目がキラキラして利発な子だと思った。だが言葉を交わしているうちに可愛い容姿とは裏腹に意志が強く、勝気で何事にも完璧を求める追求心が旺盛だとわかって来た。

二十五歳にしてすき間が無い。崩れてるところが無い。この子が本当に演歌をやるのか。演歌の歌手によく見られる灰汁とか泥臭いところがどこにも無い。

聞けば東京下町で生まれ育った江戸っ子で恵まれた環境でこの道を走って来たとか…。

彼女との話の中で私が強い印象を受けたのが、歌手なのに新曲が出ない。歌手なのに歌う場が無い。 ということだった。

そして私との出逢いが最後の賭けだと自覚していた。積年の悔しさが顔に滲み出ている。

この子も俺と同じで崖っぷちにいる仲間か…。もうこれ以上堕ちることはない。これからは頑張るだけ夢が上積みされていく。そうとわかればもう怖いものは何もない。

私は洋子に演歌は家庭を持っても、精進次第で一生続けられる仕事だから基本をしっかりやろうと励まし、演歌の声作りを夏の暑い頃から毎日のように始めた。

彼女にとって屈辱の日々だったに違いない。目に涙することもあったがよく耐えた。

私はレッスンに立ち会いながら、演歌デビューの戦略を練った。

私がコロムビアで関わったアーチストの中では洋子は石川さゆりに一番似ている。石川さゆりの成功は演歌の中の差別化にある。ご当地ソングの後、誰も手をつけなかった文学路線に舵を切った。私は思った。洋子もこの差別化こそが勝ち残れる唯一の道かと…。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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