「長山洋子 周防社長のふる里で十五周年記念コンサート」  周防社長と長山洋子編⑤【第69回】

2019.6.17

長山洋子 周防社長のふる里で十五周年記念コンサート

差別化…私は当時の風潮で誰もが敬遠していた暗くて重い三連の作品をディレクターの藤田君と相談して作家に発注した。

出来たのが『蜩』だった。予想通り猛反対された。

「サンプル盤と一緒にアンケート用紙をつけ業界関係者に配ったら、この通りこの曲は全員がダメだと答えが返って来ている」

周防社長にアンケート用紙を見せられた。すべてに×印が付いていた。

「境さん!曲を作り替えてくれないか?」

「社長!それは勘弁して下さい。私なりに考えて考えて、これしかないと辿り着いた唯一の曲です」

「あんたのその考えが間違っているとみんなが言っているんだ!」

「それなら私を替えて下さい」

洋子の演歌転身を成功させたい!みんなの悲願だった。社長は社長のやり方で…。そして私は私なりに一生懸命だった。

社長がこれほど多くの人の意見を聞くことは珍しく、まさに我が娘の就活を心配して支援する父親の姿に見えた。

『蜩』は反対の嵐の海に洋子の背中につかまって船出した。

そして洋子の努力とスタッフの無我夢中のプロモーションの甲斐あって、夢の紅白に出場を果たし、演歌転身十年目に出した『じょんから女節』は彼女の代表作に育ち、いよいよ節目の十五年目を迎えた。

「洋子!演歌十五周年記念イベントだけど何かやりたい事あるか?」

「ハイ!これまでにお世話になった人達に演歌十五歳の私を見てもらいたいです」

「わかった!ところでお世話になった人達の中から一人選ぶとしたら…十五歳の洋子を一番見てもらいたいのは誰?」

「周防社長です」

と、洋子はきっぱり答えた。

「それなら社長への感謝のイベントはどうだ?」

「具体的には?」

「俺にもわからないが…例えば社長の実家がある市原市で記念ライブをやるとか…」

「それだとマスコミの人や全国のファンの人が集まりにくいですね」

「そうだな。でもあれこれ考えないで、社長が一番喜ぶイベントにしよう!それでいいか?」

「ハイ!」

「決まった!善は急げ!早速市原のロケハンに行ってくる」

「ちょっと待ってよ境さん!この計画、照れ屋の社長が一番嫌がるかも…」

「そうか。先ずは社長の気持ちだよな…」

「境さん!あくまで私の勘だけど社長はきっと怒るよ!余計なことするな!このタコ野郎!って。嫌な予感がするなぁ…」

「洋子!何にビビッてんだ。ダメ元で俺が話してみるよ」

私は大安の日を選び社長に打診に行った。

「社長!洋子の演歌十五周年記念イベントの事ですが、洋子は十五歳に育った自分を誰よりも社長に見て頂きたいと言ってます」

「うん!それで?」

「二人で相談した結果、社長のふる里、市原でライブをやりたいと思いますが進めてもいいですか?」

「あんたは本気でそんなこと考えているのか…難しいぞ」

「取り敢えず市原のロケハンに行かせて下さい」

「それなら俺も一緒に行く!」

私は心配している洋子にすぐ電話した。

「洋子!社長は怒らなかったよ。今度一緒に市原にロケハンに行くことになった」

「えっ!ほんと?」

その日、社長と二人で市原市役所を訪ねた。そこで今後の地元相談相手として社長と同級生の時谷さんを紹介された。

「我々同級生は周防さんの事なら全員手伝いますよ。安心して下さい」

そう時谷さんは言って私を勇気づけた。

早速ライブ会場を探して歩いた。いつも営業で使っている市民会館では狭い。東京湾沿いの工業地帯の中の企業の体育館やちょっと前までサッカーのジェフ市原が使っていたグラウンドや少年野球のグラウンドなど市原を隈なく見て歩いたが、一長一短あって決め兼ねていた。

そんな時、時谷さんが言った。

「野外の広場でよければ周防さんの実家の近くに市が管理する有秋公園と云う広場がありますよ」

「時谷さん!もっと早く言ってよ」

早速、下見に行った。

近くにマンションタイプの社宅が点在していたが、森に囲まれ、芝の上に座ると八千人程度、パイプ椅子でも五、六千人は収容出来る。

ここが周防社長のふる里か…。ここに決めた!

計画は具体的に動き出した。市の許可を得る為に、周辺住民自治体の許可、地元警察・消防への申請、駐車場、病院の手配、仮設トイレの設置に至るまで多忙な日々が続いた。

夜の野外コンサートはかつて都はるみが神社の境内や山の麓など毎年開催していたので多少の知識はあったが、自分が采配するとなると大変だった。

平成十八年九月二十九日、長山洋子演歌十五周年記念コンサートin有秋公園の当日を迎えた。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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