<山内惠介との出会い>三井エージェンシー社長・三井健生氏#1

2019.10.11

「歌手としての一番の魅力、声に個性があった」

人気・実力を兼ね備えた “演歌界の貴公子”山内惠介。今や演歌・歌謡界をリードする存在となっているが、デビューから獅子奮迅、スター街道を突き進んできたわけではなかった。一度は故郷に帰ることも考えた彼を導き、その才能を開花させた三井エージェンシー代表取締役 三井健生氏に話を聞いた。

三井氏が山内と初めて会ったのは、ミレニアムイヤーに世界中が沸いた2000年。前年、16歳で初めて出場した地元・福岡のカラオケ大会で、作曲家の水森英夫氏にスカウトされた山内が、1年間のレッスンを経て、ビクターからデビューが決まり、上京したときのことだった。
当時、三井氏は、20年間勤めていたレコード会社・ポニーキャニオンを辞め、独立して芸能プロダクション・三井エージェンシーを設立。ビクターに所属となった山内のプロモーションのサポートを依頼されたのだ。しかし、当時はあくまで、「お手伝いする程度」。その関係が変わり、二人三脚で歩み始めたのは、デビューから6年が経った2007年、山内が三井エージェンシーに移籍してからだった。

浅草・ヨーロー堂でキャンペーンを行ったときの様子

山内は、さまざまなインタビューで、デビュー当時からの数年間を「長かった下積み時代」と語っている。確かに、2001年、シングル『霧情』でデビュー。1~2年はキャンペーン等で忙しかったものの、3年目からは歌える場所も減り、毎年シングルを発売するもヒットが出ず、「故郷に帰ったほうがいいんでしょうかと水森先生に相談したことがある」とも。そんな山内を「今は耐えろ」と励ますとともに、なんとか花開かせたいと考えた水森氏が、望みをかけて愛弟子を託したのが、信頼を寄せる実兄の三井氏だったのだ。

惠介の第一印象は、面白い声してるなでした。歌手の一番の魅力は声ですからね。私の感覚では、この声はプロとして商売になるなと思いました。上京したときは、まだまだレッスンが必要なレベルでしたが、水森の厳しい指導を受けて上達していましたしね。あとはプロの歌手に必要な精神面ですが、もともと素直だし、歌一筋に頑張るんだという強い意識で東京に出てきて、踏ん張っている姿を見ていたので、根性があるし、大丈夫だろうと思っていました

100%自らが手掛けることになってから、三井氏がまず、意識したのは、愛くるしさを伸ばすことだった。それは演歌歌手を育成するうえでの三井氏の哲学でもあった。
演歌歌手として売れるためには、演歌が好きな人たちに興味を持ってもらわなければなりません。となると、いかに歌が魅力的で、愛くるしいかが大事。自分の子どものように、または孫のように、かわいいねと思ってもらえることが必要なんです。そのために、歌手らしいヘアスタイル・アクションや話し方まで、非常にやかましく指導しました

佐々木小次郎に扮する山内

さらに三井氏は、こんな勝負にも出た。移籍したその年、リリースした新曲『つばめ返し』をそれまでのビジュアルとは一転、かつらをかぶって、紋付き袴姿の、佐々木小次郎に扮して歌わせたのだ。
惠介には、『丸6年戦ってきて、今のままの状況ではダメなことはわかっているだろう。だから頭の先からつま先までこれまでのイメージとは全部変えて、ビシッと背筋を伸ばして男っぽく立ち向かっていこう』と告げました。惠介は若いし、スリムだし、佐々木小次郎の姿がハマるのではないかと思いついたんです。そうは言っても、とりあえず、扮そうしてみて、撮影してみて、おかしかったらやめようなとは言っていたんですが(笑)、これが普段の顔よりカッコよくなって。惠介も嫌いじゃなかったと思いますよ

さらに佐々木小次郎の扮そうには、山内をスターにするための、三井氏のこんな思いも託されていた。
小次郎といえば武蔵です。あえて自分の中に武蔵の存在を意識することで、十把ひとからげの演歌歌手ではなく、必ず、その中から飛び抜けて、次のステップへ上がっていける存在になれる。私はそう信じていました

その裏で、三井氏自身も、必死のプロモーションを展開していた。ポニーキャニオンに勤める前、芸能プロダクションでの7年間のマネージャー経験で培った人脈とノウハウを活かして、テレビやラジオ、有線、雑誌社等々、売り込みに駆け回ったのだ。三井氏がアイデアマンぶりをいかんなく発揮したエピソードがある。「全国ラジオ局ディレクター・アナウンサー研究会」と題した勉強会を三井氏の主催で開催したことだ。

地方ラジオ局のディレクターやアナウンサーをご招待して勉強会を開いたんです。同じ業界同士、人脈もできるし、皆さんに喜んでいただけました。私にとっても全国に太いパイプを持つことができて、結果、皆さん『よし、うちの番組に三井のところの歌手を呼んでやろう』『三井のところの歌手を呼んでイベントを開こう』と全国に惠介の応援団ができたんです

そうやって一歩、一歩、山内惠介の仕事を増やしていった。

業界には“お豆腐屋さんの演歌歌手”という言葉があるんですが、お豆腐屋とは何かというと、スケジュールが埋まらなくて真っ白なこと。お豆腐屋さんにならないように、真っ白いスケジュール表をいかに黒くするか。さまざまなところに掛け合い、小刻みにスケジュールを埋めていきました。放送局では、惠介に小次郎の扮そうをさせて、ディレクターたちの前で挨拶して歌わせていたんですが、ある日、ニッポン放送で、突然、中継に出られるか?と聞かれまして、その出演をきっかけに『垣花正 あなたとハッピー!』の中継コーナーのレギュラーが決まったんです。同時に、自分たちでアンプやマイクを積んであちこちキャンペーンにも行きました。そうこうしているうちに、次第に惠介の前に人が集まるようになっていったんです
それから12年、移籍したとき400人程度だったファンクラブ会員は、今や1万7000人を超えるほどになっている。

(つづく)

次回は「山内惠介 アピール大作戦」

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