【第1回】コロムビア制作部後期の頃①「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.3.17

美空ひばり 最後の挑戦

和らかな陽光が部屋いっぱいに広がっていた。

1988年の春、私は目黒区青葉台にある加藤家の応接間に居た。ひばり御殿、美空ひばりの自宅である。

長い闘病生活の間に溜った様々な案件の打合せに呼ばれていた。

自宅に伺うといつも通されるこの応接間は、庭に面して天井から床まで一枚ガラスの大きな窓がありとても明るかった。

そこから見渡せる和洋折衷の庭は緑の芝が敷き詰められ、季節の移り変わりと共に桜や藤棚の花が咲き見事な調和を醸し出していた。

室内には少しカーブしている幅広の階段があり二階へと続いている。階段の横にグランドピアノが置かれ、吹き抜けの白い壁には石坂浩二さんの手による油絵が飾られていた。まるでそのままショーのステージに使えそうな雰囲気の部屋だった。

 

その日私はいつもと同じように部屋に上がる前に一旦、地下のガレージにある運転手の克ちゃん(今でもフルネームは知らない)の詰所に立ち寄った。ひばりさんと会う前の心の準備として、スポーツ紙に目を通し、煙草を一本吸って気持ちを落ちつかせた。そして詰所を出る際、仁丹で煙草の匂いを消した。この行動は知らず知らず身についた習慣である。

習慣と言えば、ひばりさんのことを「お嬢さん」と呼ぶようにコロムビアの先輩から指導されていたが、最初の頃はぎこちなく上手く呼べなかった。回を重ねてやっと自然に「お嬢さん」と呼べるようになっていた。

 

私がコロムビアの制作部に配転になり、ひばりさんの担当窓口になって、この時すでに十年以上経っていたが、相変わらず、ひばりさんとの打合せは緊張した。

当時、ひばりさんの体調を考慮し、滞在時間は出来るだけ短く、打合せを効率よく進めるため、案件の内容を具体的にノートにまとめておく気遣いを心掛けていた。

応接間では、いつものようにお茶とお菓子を勧められたが、身体が固まって手が出せない。約束の時間にひばりさんは現れた。美空ひばりは自宅に居ても美空ひばりである。背筋をピーンと伸ばしたその姿勢は病を一切感じさせず、威圧感さえあった。

 

打合せが終わり私が帰り支度を始めた時、珍しくひばりさんから呼び止められた。次回の新曲について相談があると言う。ひばりさん自ら新曲の企画について相談してくることなど初めてだ。ホッとしたのも束の間、またまた緊張が全身を走った。

デビューして以来、第一線を走り続け立ち止まることを知らなかったひばりさんにとって、今回の長期入院は自分自身のこと、家族や仕事のことなどを考える時間が充分過ぎるほどあったに違いない。ひばりさんは新曲の企画について自分の考えを語り始めた。

 

「今の若い人は私のことをどう評価しているのかな?」

客観的にみて従来のひばりファンの多くは、敗戦からの復興、そして激動の昭和の時代を互いに励まし合い共に生き抜いてきた云わば同志のような人達だった。そしてその子ども達世代は美空ひばりを歌の上手いおばさんとして見ていた。解りにくいのが戦後生まれの30代を中心にした若い人達の美空ひばり観だった。

 

「私の歌を聴いてくれるお客様の中で私から一番遠くにいる人達なの。私の芸能生活の中の空洞かもしれない。だから次の新曲はこの年齢層にアピールできる作品にしてはどうかしら」

とひばりさんは言った。冷静な自己分析で説得力があった。明日をも知れぬこの状況の中での美空ひばりの新しい挑戦である。私に「それは無理です」とか「検討します」とか言うそんな余裕はもうない。

「ハイ!わかりました」と答えたものの全く自信もない。

困った。誰にこの企画を相談しよう…。私の周囲にいる人達は俗に言う演歌人間ばかりだ。だが待てよ。一人いる!

 

コロムビアのアイドル堀江しのぶをプロデュースしていた秋元康先生に、担当ディレクターが次にプロデュースをお願いするとしたら誰がいいですか?と秋元先生に振ったらすかさず「美空ひばりさん」と答えたらしい。

担当のディレクターは当然アイドルタレントの名前が候補として出てくるものと思っていたので、その答えにびっくりしたと以前私に話してくれたことを思い出した。

私は秋元先生に一度も会ったことがなかったが、三十歳前後の若い人だとは知っていた。

当時、秋元先生はおニャン子クラブで一世を風靡していたこともあり、作家と言うより流行を生み出すプロデューサーのイメージの方が私には強かった。未知への興味。あたってみよう!

 

早速私は応接間にある電話を借り(まだ携帯電話は無かった)、秋元先生の事務所に連絡した。

幸いにも先生は事務所に居て直接会話することができた。まだ一度も会ったことのない相手に私は

「失礼ですが秋元先生は何年のお生まれですか?」

と聞くと先生は

「はぁ?年齢がどうかしましたか…」

声は若い。すぐに会ってみたくなり、私は秋元先生と会う約束をするとひばり邸を後にした。

---つづく

 

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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