【第2回】コロムビア制作部後期の頃②「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.3.25

秋元康プロデュース 美空ひばりアルバム制作

旧テレ朝通りを有栖川記念公園方面に向かい、公園の手前を左折したところに秋元康先生の事務所はあった。若い人が沢山いた。部屋に煙草の煙が充満していてとても活気があった。

初めて会った秋元先生は事前の情報通り、美空ひばりに強い関心を示した。この人だ!私は直感で面白い出会いだと思った。
「秋元先生、先生ならひばりさんにどんな作品を提案しますか?」
私は会話の終わりに彼に振ってみた。
「そうですねぇ…」
彼は思案顔になったが
「私の考えを企画書ですぐ届けます」
キッパリと彼は言った。

早かった。“思い出の目次”とタイトルが付けられた企画書が私の手元に届いた。今までの演歌制作では企画書で作品を提案されることはなく新鮮だった。夜な夜な作家の先生方と酒を飲み、語り明かしていると誰が何を考えているか薄々分かってくる。私達はそこを狙って作品の発注をする。要は演歌は夜、生まれていたことになる。

秋元先生の企画書は相当以前から構想が練られていたのか、ひばりさんへの熱い思いと、仮とはいえ、お洒落なタイトルが列記してあり現代の息吹を感じさせられる手練れたものだった。
私は何回も何回も読み返しているうちに自分が秋元康の世界に近づいていることに気が付いた。よし!ひばりさんと私の思いをこの人に託そう。
早速、大まかなスケジュールを伝え、それ以外は全て彼に託した。思い切って丸投げした。彼は快諾した。

秋元康プロデュース、美空ひばりの最後となるオリジナルアルバム制作がスタートした。一九八八年初夏の頃だった。
後に秋元先生は当時を振り返り
「美空ひばりのオリジナルアルバムを私のような新人作家に何ひとつ条件も付けず自由に任せてくれ、さすがひばりさんのスタッフは腹の括り方が違うと思った」
と懐かしそうに言っていたが、それを聞いて脇から汗が流れる思いがした。あの時の私は作家の感性を信じるしか術が無かった。

「私の歌をおニャン子の先生が作るの?」
後日、秋元先生との打合せ内容を報告に行った時のひばりさんの反応である。秋元先生のことをおニャン子クラブの仕掛人で、常に時代をリードする敏腕プロデューサーだと私が説明したため、ひばりさんは一瞬、戸惑ったがすぐに期待の微笑みを見せた。

多忙な2人の対面はなかなかスケジュールの調整がつかず延びに延び、その年の暮れにやっと実現する。
日本テレビ生田スタジオで収録された特別番組『新たなる旅立ち、美空ひばり』の楽屋で2人を始めて引き合わせた。
「若いね」
会った瞬間のひばりさんの第一声に秋元先生はキョトンとしていた。ひばりさんにとって自分がこれから挑戦しようとする若い作家との初めての出会いだった。

秋元先生は私達の注文に早速5人の若手作曲家を手配して了承を取りつけてくれた。後藤次利、高橋研、中崎英也、林哲司、見岳章の先生方で、いずれもアイドル系ポップスのヒットメーカーとして活躍中のバリバリの5人だった。しかも以心伝心、ひばりさんが拘った30代の先生達だった。秋元先生からそれぞれの作品の感じが伝えられ作曲陣は動き出した。

一方、元来音楽屋ではない私は今回の作家陣とは馴染みも面識もなく、内心困っていたが、強力な助っ人がいた。ひばり担当の宅間ディレクター(後にコロムビアの専務になる)である。
彼は横浜の音楽一家に生まれ育ち、自身もマリンバを奏でる。しかも我が演歌グループに配属される前はJ-POP班のディレクターとして豊富な経験と実績があった。今回の作家陣とは充分コミュニケーションが取れる人物だった。

準備も万端、これから忙しくなるぞと思ったそんな時、秋元先生が結婚されて生活の拠点をニューヨークに移された。不安がない訳ではないが慶事でもあり、成り行きを見守るしかなかった。
しかしさすがにプロ。程なく宅間氏と秋元先生の間でファックスでのやり取りが始まった。今思えばこの頃の私は毎日新鮮な気持ちで出社し、ファックスが来るのをドキドキしながら待っていた。

あがってきたどの作品も若い感性に溢れていて、納得するものばかりだった。中でも高橋研先生の『ハハハ』はタイトルの面白さに加え軽快でノリが良く、今回の企画の趣旨にぴったりの作品だとその時点では確信していた。どんな苦難も笑い飛ばそうと秋元先生からひばりさんへの心のこもったメッセージが込められた作品でもあった。

『ハハハ』を歌収録後すぐにラフミックスし、その音源を業界関係に試聴してもらうと好評で中には大化け(大ヒット)すると予言する人も現れた。調子に乗って私達は、フジテレビの『笑っていいとも』の番組内でも曲紹介をして頂いたが、放送後の評判も上々だった。
この時点では『川の流れのように』はアルバムの中の一曲にしか過ぎなかった

---つづく

 

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

関連キーワード

この特集の別の記事を読む