【第3回】コロムビア制作部後期の頃③「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.3.25

名曲『川の流れのように』誕生秘話

「ハイ!次の曲の準備お願いします」

1曲30分程度で歌の収録は終わる。ひばりさんの場合、3回以上歌う必要はない。ひばりさんの早くて正確な歌収録に作家の先生方は一様に驚いていた。
『川の流れのように』の収録は1988年10月11日、赤坂のコロムビア第一スタジオで始まった。この日は他に『あきれたね』『いつか』も収録され、『川の流れのように』はラストだった。

収録は順調に進み問題なく終わった。いつものひばりさんなら「後はよろしく。お疲れ様」とスタッフに声をかけ労をねぎらって帰るのだが、この日はちょっと違った。
コロムビアの第一スタジオのサブルームにはエンジニア用の椅子の他に来客用ソファがある。ひばりさんは収録後、そこに座って私を呼んだ。

「境さん、今まで録った曲も今日の3曲もみんないい曲だけど、どれをシングル盤にするつもり?」
この時点で私の頭の中では既に結論は出ていた。
「はい!『ハハハ』にしたいと思います。この曲は関係者の評判も上々で、大化け(大ヒット)すると評価する人もいます」
私には自信があった。

「ああ、そう…。だけどテレビやラジオの曲紹介の時、美空ひばりの新曲『ハハハ』をお聴きくださいって言うの?」
「そうだと思います」
「何か変ね。おかしくない?」
ひばりさんはそう言ったまま黙り込んだ。

緊張した空気が部屋に漂い始めた。私だけでなく居合わせた人達も何が飛び出すかハラハラしていたが、私はこれまでの経験で、さほど大きな問題ではないと判断した。
ひばりさんからは今までもシングル曲の選定では多少の異論が出ることはあったが、その度に議論し、ひばりさんは最後はいつも会社に委ねてくれた。今回はひばりさん自身も『ハハハ』は面白い。過去の自分の作品にないタイプだと喜んでいたので、結局これで決まると思っていた。

しばらくサブルームに沈黙が続いた後、ひばりさんが切り出した。
「『ハハハ』も面白いけど今日録った『川の流れのように』はシングルにどう?」
私は改めて今回の企画の主旨を話し『川の流れのように』は今回ターゲットにしている三十代のお客様向けの作品とはちょっと違うし、このタイプは過去のひばり作品に沢山あることを話した。しかしこの日はいつもと違いそこで終わらなかった。

ひばりさんは“川”に拘っていた。ひばり流の“川”の説明が始まった。
「“川”とは山に雨が降りその雨粒が木の葉に落ち、小枝を伝い木の幹を流れ、木の根に沁み込み、長い年月をかけ山の麓でせせらぎになり、岩だらけの小川を、あっちの岩、こっちの岩にぶつかりながら大河となり海に注ぐのよ」
あなたは知っていますか!と言わんばかりの力説だった。ガキの頃、その山と川しかない田舎で日没を忘れ遊んで過ごした私にとって、“川”の話は当たり前で、それがどうしたのですか!と言い返したい気持ちで対峙していたが、ひばりさんは真剣だった。

ひばりさんは私にだけでなく秋元先生にも“川”の話をしていた。
「先生!川って短いのもあれば長いのもあるけどみんな大海に注ぐのよね。今回のアルバムは全曲好きだけど、特に『川の流れのように』の詞は大好きよ。まさに人生は川の流れのようなものだね」
ひばりさんにそう言われ秋元氏はその時自信をもって作詞家を名乗ろうと決心したそうだ。彼の名刺の肩書はその時以来今も作詞家となっている。

コロムビア第一スタジオのサブルームでひばりさんは
「岩にぶつかって流れを変えながら流れ続けるのよね…」
繰り返し繰り返しつぶやいていた。私はそれを聞いているうちに激しく頭を叩かれた思いでハッとした。ひょっとして、ひばりさんはこれまでの歌手人生を川の流れに重ね、遠く過ぎ去った日々に思いを巡らせているのでは…。そう考えるとはっきりひばりさんの言う“川”の話が理解できた。

ひばりさんにとって、戦後の焼跡で歌った時代から今日まで、人生は岩だらけの川だったに違いない。私が知っているだけでも岩に例えられる出来事はたくさんあった。大人の歌を歌う生意気な子どもと叩かれた幼少期、九死に一生を得た四国でのバス転落事故、浅草国際劇場でファンの人に塩酸をかけられ顔に大火傷をした事件、他にも数えきれないほどの苦難を乗り越えて来た。そして何と言っても最大の苦難は、一卵性親子と言われた母、喜美枝さんとの別れに続く弟2人との死別だろう。ひと一倍家族への思いが強いひばりさんにとって、耐え難いほどの哀しみ、苦しみであったに違いなかった。

生きるため、そして世のため、人のため持ち前の不撓不屈のプロ魂で、岩だらけの歌の道を突き進み、あらゆる困難に打ち勝ち、そして今、自身の大病と闘っているひばりさんの心境に接した気がした。

私の体に強い電流が走った。『川の流れのように』をシングル盤にしようとその時決めた。

---つづく

 

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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