【第5回】コロムビア制作部後期の頃⑤「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.3.25

美空ひばり 母と子の絆

十代の和也社長率いる㈱藤和エンタープライズのお披露目会場は事務所の会議室だった。二つ並んだ事務用長机に、缶ジュースが置かれているだけの質素なものだった。
周りを見渡しても顔馴染みのスタッフは誰も居ない。和也氏と同年代の若い社員らしき人達が十人ほど居るだけだ。
ひばりさんは従来から居るスタッフを敢えて避けたようだ。和也氏が思い切り自由に働ける環境作りに配慮し若いスタッフを揃えたに違いない。私は我が子に自立を促す母の思いを感じた。

会場にひばりさんは脚を引きずりながら、お付きの人達に支えられて現れると、新しいスタッフの前で挨拶を始めた。
日頃から私は数千人の観衆を前に挨拶をするひばりさんを見てきたが、ここでひばりさんは何を話すのか…。
ひばりさんは大真面目に
「皆さんの力で和也社長を盛り上げてほしい。美空ひばりも皆さんに負けないよう頑張ります」
そう言うとひばりさんは僅かな人達の前で深々と頭を下げたのだった。

和也社長の初仕事はあの東京ドームコンサートになった。
5万5千人の大観衆のための会場設営が始まった。100メートルの花道、クレーンで釣り上げられた大型スピーカーに加え、音のずれを修正するために設置された数百の小型スピーカー、人の身丈の5倍はある高い位置のオープニングステージなど、ドーム会場ならではの工夫が凝らされた。
衣装も遠くの観客にまでよく見えるよう森英恵デザインの派手なものが用意されていたが、主役のひばりさんの病状は一進一退が続き心配されていた。にもかかわらず、ひばりさん自身は和也社長の初の大仕事だけに強い闘志を燃やしていた。

1988年4月11日コンサート当日、ステージ裏の楽屋にはベッドが運び込まれ、点滴の器具や酸素吸入器が準備されるなど、ひばりさんの体調に充分対応できるよう配慮された。
長期入院からの復帰と回復した姿をファンの方達に見てもらうことが目的の演歌歌手初のドームコンサートである。果たして無事に出来るのか…。関係者全員が心配だったはずだが、誰一人として口にしたり、顔に出したりすることはなかった。

特に進行を担当していたコロムビアの森啓氏はいつもと全く変わらない動きをしている。彼が一番心配しているはずなのに飄々とした顔で決められた仕事に集中していた。
森啓氏とは私が制作グループに配転になって初めて知り合った。彼は私とは対照的で何事にもくよくよしないし、余計なことは考えないで一つのことに集中出来るタイプだ。私はいつも感心させられていた。この大事な日でも彼は変わらなかった。その態度はとても頼もしかった。

直前まで楽屋で横たわり点滴処置を受けていたひばりさんだったが、オープニングテーマに誘導され高所恐怖症にもかかわらず、5万5千人の観客を一望出来る高い高いステージに笑顔で立った。
スポットライトの中に浮かびあがったひばりさんに5万5千人の視線が注がれた。
「私は元気よ。みんなに会えて本当に嬉しいわ」
「お帰りなさい!」
会場全体が叫んだ。ついに始まった。ドームの関係者席で私は只々無事に完唱することを祈るだけだった。

いよいよエンディング曲『人生一路』。ひばりさんは持てる力を振り絞って熱唱し、歌い終わると、客席に大きく手を振りながら歩き出した。
東京ドームのアリーナ席を真ん中で割って作られた100メートルに渡る純白の花道。美空ひばりは一歩一歩、歩いて行った。
大観衆の大声援とドームに響き渡る拍手を全身に受けて笑顔のまま歩き終えると、ひばりさんはスモークの中に消えた。
壮絶な自分との戦いを終え、燃え尽きた体は待ち受けていた愛息和也さんの胸の中に倒れ込んだ。

横浜はひばりさんが生まれ育った故郷である。その横浜で、加藤和也プロデュース横浜アリーナコンサートがTBS主催で計画されチケットの販売も始まっていたが、ひばりさんの容態は芳しくなかった。
親子で作る夢のステージにひばりさんは歌手生命を懸ける決意を固めていた。
「舞台の上で歩けなくなっても、倒れても必ずこのコンサートは成功させる」
ひばりさんは呪文のように言っていた。

だが、先のドームコンサートで見せた歌手美空ひばりの壮絶なその姿が和也さんにもスタッフにも記憶に新しく、主治医からコンサートは無理だとも診断されていたのでコンサートは中止の方向に動き出した。
関係者は数回にわたり、中止を説得しにひばりさんの元を訪ねたが、誰の説得にも応じなかった。
「公演中止の責任は俺がとる。俺はママとずっとずっと一緒に居たい。だから俺の言うことを聞いてくれ」
愛息和也さんのこの一言にひばりさんはうな垂れ、涙を流し、コンサート中止を受け入れたと伝え聞いた。ひばりさんの断腸の思いに私は胸が締め付けられるようだった。

---つづく

 

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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