【第6回】コロムビア制作部後期の頃⑥「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.3.25

「さようなら」ラジオで最後のメッセージ

「ステージの上で死んでもいい」

決死の覚悟で挑んだ横浜アリーナこけら落としコンサートは中止された。親子で制作するはずだった大きな夢のコンサートの中止はひばりさんの心身に決定的なダメージを与え、これ以降全ての仕事をキャンセルし、ひばりさんは順天堂大学病院に入院した。

そんなタイミングでニッポン放送の内田部長からラジオの特別番組の企画は持ち込まれた。
「内田部長、無理ですよ。しかも24時間の生放送なんて絶対出来ませんよ」
私はひばりさんの病状を伏せたまま丁重にお断りしたが、先方からはせめて本人に打診だけでも…と取り下げる姿勢はなかった。私は扱いに困り和也さんに相談したが
「お袋を殺す気ですか!」
と一蹴された。度重なる断りにニッポン放送側は次々に出演条件を変え交渉してきた。

結局、青葉台の自宅から10時間の生放送に企画は変更され、私は就任早々のひばりプロ、和也社長に総合プロデュースをお願いすることでまとめ、ダメ元で和也さんからひばりさんに打診をお願いした。結果、ここでも愛息和也社長プロデュースが決め手となりひばりさんは番組出演を承諾した。

明日をも知れぬ我が身にムチ打ってまで、番組出演を決断した背景に、子を想う母の心が大きく働いたことは間違いないと私は思った。
平成元年3月21日、青葉台にあるひばりさんの自宅の応接間に放送機材を運び込み、仮設の放送局を作った。
そして当時ニッポン放送の敏腕プロデューサーだった湯浅明氏が現場の責任者として制作にあたった。

和田アキ子さんやとんねるずのお二人など、多彩なゲストを迎え番組は順調に進行した。
ひばりさんにとっても楽しく過ごした10時間の生放送もいよいよ終わりに近づいた。
ひばりさんは番組の締め括りの挨拶に入った。
参考までにとプロデューサーの湯浅氏からコメント用の原稿2枚がひばりさんに手渡された。
それを手にマイクに向かったひばりさんは1枚目に目を通すと、淡々とした口調でリスナーに語りかけていたが、突然原稿から目を離しアドリブで語り始めた。
一瞬にしてその場の雰囲気は変わり、水を打ったような静けさとなった。ラジオとはいえ、10時間の生放送は相当体にこたえたのだろう。ひばりさんは苦しそうな表情で息も絶え絶えに声を振り絞ってファンの一人一人に一言一言噛みしめるように語りかけた。

「ありがとう」を繰り返しながら最後を「さようなら」で締め括った。その場に居たすべての人の心が哀しみで凍りつき、そして涙となった。
日頃、泣き言など言ったことのないひばりさんが、この時ばかりは
「疲れたので休みたい」
と言って部屋を出て行った。
病院ではなく自宅の自室での休息だったので私はちょっと安心していたが、それも束の間。急遽病院に戻ることになり慌ただしくなった。加藤和也プロデュースの特別番組で張り切り過ぎたのか…。積年の思いを余すことなくファンに伝え、心が空っぽになったのか…。
精根尽きたひばりさんは和也さんや身の回りのお世話をしていた範ちゃんに支えられ、愛車で青葉台の自宅を後にし順天堂大学病院へと戻って行った。

その時、これが美空ひばりとの永遠の別れになるとは私は露ほども思わなかった。
私にとって長くもあり、また時には短く感じることもあった12年間のひばりさんとの厳しい厳しい仕事もこの日で終わった。

青葉台の自宅は1984年に新築された。設計当初からひばりさんは自分の考えを家の隅々まで取り入れたとても愛着のある自慢の家だった。当初3階部分は舞台の稽古場として造られていたが、いつの間にか若のスポーツジムに変わり、その後ホームバーとして使われていた。
この3階の部屋にはカラオケが設置されており、ひばりさんは心おきなく仲間と楽しんでいた。
ひばりさんは少し酔ってくると
「境さん、何か歌ってよ」
とからかい始める。
「ハイ歌います!港町十三番地」
「またそれ歌うの?他にないの?」
「ハイ!」
「だけど歌うたびに上手くなるね」
と言いながら、私に歌はこうして歌うのよと言わんばかりに自らも何曲も歌っていた。
自宅のバーで仲間と飲む時は我を忘れ、とても楽しんでいたように思えた。
ひばりさんはいつもそうだったが、完全に酔ってくると香水を頻繁に使い始める。これがサインでホームバーはお開きになる。

そんな思い出がいっぱい詰まった住み慣れた自宅との別れがこんな形で簡単に来るとは誰も思っていなかった。ひばりさんはもう一度自分が造ったこの家に帰って来たかっただろうな…。そしてホームバーで大好きなブランデー、コルドンブルーを…と思うと胸が熱くなった。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

関連キーワード

この特集の別の記事を読む