【第11回】コロムビア制作部後期の頃⑪「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.3.27

「美空ひばり全国葬」プラン

旧山手通りからのもの凄い急な坂をお互いに助け合って転ばないように下りて来る何組もの老夫婦の姿を見ていた。

私はこの日、青葉台の加藤家で弔問客の応対に懸命に働いていた。私達コロムビアの社員は主に家の外を担当していた。供花が次々に届けられ置場に困ったが、美空ひばりの生き字引と言われていた森啓氏が一人で見事に整理した。花の送り主の序列を考え捌く様は名人芸だと思った。私はこの手法を以後も使わせてもらっている。

一般の弔問客用には玄関に簡単な焼香台を設け対応したが訪れる人は後を絶たなかった。車で来る人も多く、ナンバープレートを見る限り関東各県から訪れた人達が大半を占めていたが、名古屋、大阪など東名高速道の利用者も多く見かけた。また遠くは東北や九州からの弔問客もいた。
現在のように車にナビが装備されていないこの時代、ここ青葉台のひばり邸を探し辿り着くまでの苦労を考えると私は申し訳ない思いで一人一人に深々と頭を下げた。
弔問客が一番多く駐車に利用した旧山手通りは渋谷警察署の管轄だった。そこからひばり邸へ向かう坂を一歩下るともう目黒警察署の管轄になる。
知らなかった。ひばり邸の住所は目黒区だったため私は目黒署には事前に葬儀があることを届出て協力をお願いしていたが、渋谷署には届けを怠っていた。そのため、弔問に訪れた人達の駐車時間は制限され、焼香を終えるとすぐ車の移動を強いられており申し訳なかった。
後手になったが翌日、渋谷警察にも届出をし大勢の警官に交通整理に当たって頂いた。

弔問客は初老の夫婦が目立った。戦後の復興をひばりさんの歌に励まされ頑張って生きて来た人達だろうか。お線香を一本供え手を合わせると
「ありがとう。ありがとう」
と言って目頭を押さえる姿が印象に残った。悲しみを越えた感謝の気持ちなのか…。
焼香を終えた人達は次々と来た道をまた何時間もかけて遠くへ帰って行った。
この光景は私の胸に深く残った。

加藤家の葬儀が終わるとコロムビア、東宝、コマスタジアムによる関係三社合同社葬の準備が始まった。7月22日、場所は青山葬儀所に決まった。あと1ヶ月もない。私が現場の指揮を執ることになったのだが、各社事情が異なり、制約の多い困難な仕事になった。
各社の担当からひばりさんに相応しい様々なプランが提案されて来たが、私は加藤家の葬儀で見た遠くから弔問に駆け付けた人達の姿が忘れられなかった。

よし!全国の多くのファンの人たちの為に今度はこちらから出向こう!お別れ会の出前である。
出来るだけ近くでお別れが出来る為には少なくとも東京青山の他に七大都市での開催が必要だ。
札幌、仙台、名古屋、大阪、広島、高松、福岡にそれぞれ、青山葬儀所と同じ祭壇を設け、その模様を衛星放送で中継するプランを私は考えた。
それぞれの都市に打診してみると様々な会場の候補が提案されて来た。
市の公園、デパートの広場、札幌では駅の地下商店街、仙台では東北電力の本社駐車場など地元企業の協力も得られることになった。

出来る!やろう!そう決めて早速この「美空ひばり全国葬」プランをコロムビアの役員会に提案したが、準備の時間も無く費用が掛かり過ぎるという理由で却下された。
諦めるしかないのか…。幻のプランに終わらせたくない。再度会社に食い下がったが答えは同じだった。悔しい。また多くのファンの人達に東京まで来てもらうことになるのか。森氏と二人で悶々と悩んでいた。

そんな時、会社にTBSの弟子丸部長と久保嶋次長がひょっこりやって来た。特別な用事はなく、近くなので陣中見舞いに寄ったと言っていたが、私はふたりを簡単には帰さなかった。
「弟子丸さん、こんなことを考えているのですが、何か良い知恵はありませんか?」
私は却下されたばかりの「美空ひばり全国葬」のプランを説明した上で問うてみた。
「大変なことをやろうとしているのですね。頑張ってください。」
彼らはさらっと答えて帰って行った。
冷たいな…。TBSとは特番や『川の流れのように』の著作権に関することやドラマの主題歌、コンサートの主催など深い深いお付き合いだったのに。それでも駄目か…。

だが神は私を見捨てなかった。翌日弟子丸部長が私のところへまたやって来た。今度は陣中見舞いではなくハッキリ目的があった。
弟子丸部長は「TBSで協力したい。テレビ中継だけではなく、全国葬全体に協力したい」と言った。
「えっ!本当ですか!」目の前に光が見えた。
彼はTBSの系列社を動員して総力を結集すると力強く言ってくれたが、昨日私が説明したプランに対し、ひとつだけ答えがなかったものがあった。
それは衛星放送での中継条件だった。弟子丸部長は映像が綺麗な地上波を勧めたが、実は絶対に衛星放送でないと駄目な理由があった。
---つづく

 

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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