【第10回】コロムビア制作部後期の頃⑩「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」
心に封印した ひばりさんの顔
私が東京を留守にしている間、宣伝担当の大槻孝造氏はよく頑張ってマスコミ対応をしてくれていた。
私が到着した時、既に青葉台のひばり邸前はマスコミ関係者で黒山の人だかりだった。
大槻氏は私の顔を見るなり緊張の糸が切れたのか大粒の涙を見せた。
私は病院から無言の帰宅をされたひばりさんと対面した。
誰が施したメイクか分からないが綺麗なひばりさんがそこに居た。今にも語りかけてきそうないつもの見慣れた顔が私の目の前にあった。それは大きな大きな仕事を終えた満足感に満ちたとても穏やかな表情に思えた。
私はひばりさんの枕元に両手をつき深々と頭を下げ詫びた。いつもなら叱ってくれるひばりさんは無言だった。寂しい。寂し過ぎる。
私はこの対面をひばりさんとの最後の別れとして心に留めておこうと強く思い、目の前に眠るひばりさんの美しい顔を脳裏に焼きつけた。そして自分の心に封印をした。
今日から私が働く番だ。私は青葉台のひばり邸を出ると急いで赤坂のコロムビアに向かった。
会社の私の机の上にはいつも使っていたゴルフのボストンバッグが置いてあった。嫁さんが届けてくれたものだ。私が三日間は外泊をするだろうと読んだのか、バッグには下着が3セット、Yシャツ3枚に喪服が折り畳んで入れられていた。風来坊の亭主に対する嫁さんの手慣れた気遣いにとても助かった。
私は着替えを終えると急いで役員会議室で開かれていた会議に出席した。
「こんな大事な時に何処に行っていたんだ!」
上司から罵声が飛んできた。
「すみません。詳しくは後日報告します」
この場は謝るしかない。
私は空いている席を探し慌てて座った。
丁度記者会見の内容について議論されていた。
「境はいつもマスコミに対し、元気です。今日は病院の廊下を一人で歩きましたとか、今日は気分が良く、こんな絵を描かれましたとか、見通しの明るいいいことばかり言っていたのに、こんな日を迎えてしまったじゃないか」
と担当役員は私に向かって言ったあと続けて
「今日は順天堂大学病院の先生方三人に来て頂いているので、ここに至るまでの経緯を正確に記者会見で発表して頂いたらどうか」
とまで言った。主治医の吉良先生の顔が少し曇ったのを私は見逃さなかった。
落ちついて会議の出席者を見渡すと三人の病院の先生方の他にコロムビアの会長をはじめ役員全員が顔を揃えていた。そして会議室の入口付近の席にコロムビアの社員ではない三人が座っていた。人生の大半をひばりさんに捧げてきたお付きの範ちゃんとチーちゃん、そして小西良太郎さんだった。
一瞬、スポニチの小西さんはまずいと思ったがひばりさんと小西さんの親密な信頼関係を考えると不思議ではなく、かえって私にとっては心強く思えた。
赤坂のコロムビア一階のロビーには記者会見を待つマスコミの人達が集まり始めていた。
記者会見には病院の三人の先生方とコロムビアの望月社長が出て、会見を行うことに決まったが、私は内容が心配になり、最後にもう一度上司に質問をした。すると上司から
「主治医の先生に正確な医学的な説明をお願いする」
と返された。
誰のための記者会見なのか?私は今しがた心に封印してきた綺麗なひばりさんの顔を思い出すと怒りがこみ上げて来た。
「ちょっと待ってください!医学的に正確な説明など聞いて一体誰が喜びますか?誰が涙を流しますか?我々の会社は夢を売る会社じゃないんですか!」
3年程前、福岡で行った記者会見のことを私は思い出していた。福岡の病院に入院したひばりさんの病状報告の為の会見だった。
その際、大腿骨骨頭壊死の説明の為にひばりさん自身の股関節のレントゲン写真が使われた。
どこの骨が壊れているのか医者は大きく映し出された股関節のレントゲン写真で丁寧に説明し、記者の質問に答えていたが、私はレントゲン写真とは言え、その場から逃げ出したくなるほど嫌な気分になった。
ひばりさんの股関節のレントゲン写真は翌日の新聞各紙にでかでかと掲載された。詳しい説明をお願いした我々に責任はあったが、夢のかけらも感じない会見だったと私は反省していた。これと同じことは今回は絶対避けるべきだ。
「先生、お願いします。会見では最低限の必要事項の報告にとどめ、最後にひばりさんは安らかな最期でしたと言ってください」
と私は懇願した。
「またいい加減なことを言っているな」
と言う周りの声を遮るように主治医の先生は頷くと
「穏やかな安らかな最期でしたよ」
と言って私を見た。
入口近くの席で小西良太郎さんも何度も頷いていた。
---つづく
著者略歴
境弘邦
1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。