【演歌の歴史】演説歌から歌謡曲へ、演歌の発祥とその変遷とは?

2021.5.31

こぶしをきかせ、義理人情や男女の情感を歌う「演歌」。歌謡曲の一部である演歌は日本の歌として定着していますが、令和の現在では演歌をよく知らないという人も多くなってきているようです。もともと演歌は商業的なものではなく、学生たちが歌う流行歌でした。そこからさまざまな変化を遂げ、現在のような演歌が作られるようになります。

楽曲ジャンルが多様化し、音楽への触れ方も変わってきた今、改めて演歌の歴史について振り返ってみましょう。

演歌がうまれるまで

演歌はどのような流れで誕生したのでしょうか?その歴史を紐解くと、意外なルーツがわかります。

起源は自由民権運動にあり

演歌の起源は明治10年代に起こった自由民権運動の「演説歌」で、当初は書生(現在の大学生)による政治や社会批判などがおもな内容でした。やがて政治活動家が歌うようになったことから「壮士演歌」「壮士節」となり、『ダイナマイト節』や『オッペケペー節』などが流行ります。

 

日露戦争前後からは庶民の心情がテーマとなり、政治性よりも流行歌としての性格が強くなりました。バイオリン伴奏をつけて歌うなど大衆歌謡の基礎が作られ、職業化した「演歌師」が登場。大正時代に入ると西洋音楽の手法も取り入れられましたが、大正10年(1921)に発表された『船頭小唄』は日本固有のヨナ抜き音階で作曲され、その後の昭和演歌の基本となります。

 

そして昭和3年(1928)、日本ビクター蓄音器(現・JVC・ケンウッド・ホールディングス)や日本コロムビアといった外資系レコード産業の成立によりレコード歌謡が誕生。レコード会社が企画・制作を行う仕組みができ、それまでの演歌師に代わって洋楽系歌手が登場しました。

ラジオの普及で「田舎調」が流行

昭和20年(1945)の敗戦後、戦前から続く文化は封建的とみなされ、アメリカから流入したジャズ調のレコード歌謡が「都会調」として主流になります。レコード会社は疎開していた歌手たちを呼び戻すとともに、新人歌手の開拓に奔走。天才少女歌手と呼ばれた美空ひばりもこの頃にデビューしました。

 

やがてラジオが全国に普及すると、地方を舞台にした「田舎調」の楽曲が誕生し、春日八郎や島倉千代子らの曲がヒットします。日本らしい特徴を持つ田舎調の楽曲のヒットは、都会調で席巻されていたレコード歌謡に衝撃を与えました。これにより都会調を代表する美空ひばりも田舎調に近い楽曲を発表し、後年「演歌歌手」と呼ばれるキッカケとなります。

流しから発生した「艶歌」

1960年前後になると、「流し」の系統がテーマとなる「艶歌」ジャンルが誕生しました。流しとは、ギターなどの楽器を持って酒場を巡り、客のリクエストに応えて歌ったり伴奏したりする人のことです。代表的な艶歌歌手・こまどり姉妹は、三味線流しで暮らしていたという生い立ちから「貧しさ・不幸」というイメージでプロモーションされました。

 

また、流しは任侠との親和性が高く、昭和37年(1962)にデビューした北島三郎は『ギター仁義』『兄弟仁義』など任侠をテーマにした楽曲を発表しています。

「演歌」の知名度が広がる

昭和38年(1963)、コロムビアを退社したスタッフたちが演歌専門レーベル「日本クラウン」を設立しました。これにより流行歌と演歌が分裂していきます。この頃、吉永小百合らの「青春歌謡」ジャンルが誕生し、海外からはザ・ビートルズなどのフォークロックやブルースが流入。日本の音楽界の楽曲ジャンルは一気に多様化しました。

 

昭和41年(1966)作家の五木寛之が音楽ディレクター・馬淵玄三をモデルにした小説『艶歌』を発表します。当時の艶歌は政治批判精神を欠いているとして一部の人々から否定されていましたが、この小説は芸能化した艶歌を肯定的にとらえ、音楽ジャンルとしての「演歌」の確立に大きく貢献しました。

その後、有線放送を通じて美川憲一の『柳ヶ瀬ブルース』が大ヒットし、ブルース歌謡にフォーク要素を取り入れた藤圭子がブームに。これにより演歌の知名度は上がり、若者のあいだにも演歌歌手の存在が広がりました。

 

演歌の確立に大きく貢献した五木寛之さんによる、”歌と時代”をテーマにした動画コラムはこちらです。

「五木寛之 歌いながら歩いてきた」

https://www.utabito.jp/feature/819/

演歌の変遷

幅広く認められるようになった演歌ですが、その後は時代とともに形を変えていきます。

演歌の形式化とカラオケの登場

1970年代後半に入ると五木ひろしや八代亜紀の知名度が上がり、モダンな曲調と長い下積みというエピソードも相まって人気を誇りました。一方で演歌は形式化し、過剰にこぶしをきかせるなど特徴的な要素を商業的に消費する流れが続きます。昭和52年(1977)にカラオケが登場すると夜の盛り場で演歌が歌われるようになり、都はるみの『北の宿から』、石川さゆりの『津軽海峡・冬景色』などがヒット。テレビ番組では演歌歌手をメインにした「NHK歌謡ホール」もスタートしましたが、ヒット曲より過去のスタンダードナンバーが中心でした。

 

その後、カラオケボックスが普及し若者のカラオケ利用が広がると、演歌の占める割合は徐々に低下していきました。

平成時代の演歌市場

平成に入ると、J-POPと呼ばれる若者世代の歌がレコード歌謡のほとんどを占めます。この変化に伴い、レコード歌謡全般を指していた「歌謡曲」という呼称は、特定の時代の特定ジャンルの楽曲を指すようになりました。演歌の市場規模は縮小し、一部レコード会社では演歌部門が撤退。そのなかで、平成12年(2000)に氷川きよしが、平成20年(2008)にはアフリカ系アメリカ人のジェロが日本で演歌歌手としてデビューします。

熱狂的なファンをもつ演歌

平成以降は「演歌」という新ジャンルを築いた歌手が相次いで亡くなり、NHK紅白歌合戦の常連だった大御所たちも存在感が衰退していきました。また、昭和時代のような目立ったヒット曲も登場しなくなりました。現在、演歌を支えるのは青春時代に演歌に触れていた世代で、若者世代は演歌から遠のいています。しかし、一部のテレビ局では演歌のレギュラー番組を自社制作しており、演歌は現在でも熱狂的なファンに支持されています。

海外にみる演歌の歴史

日本の「演歌」は海外ともつながりがあるようです。ここでは海外での演歌の歴史についてご紹介します。

台湾で流行した「台語歌」

台湾では、戦前に日本語教育を受けた世代が日本の歌を聴いていたことから、日本でヒットした演歌の大部分は台湾語でカバーされ続けてきました。台湾人歌手の歌謡ショーで、日本の演歌が歌われることも多かったようです。

 

台湾で作曲されたオリジナルの演歌曲も多数あり、題材や歌唱法は日本の演歌と変わりません。台湾での演歌は「台語歌」と呼ばれ、現在でも高い人気があるようです。

共通点の多い韓国の「トロット」

韓国の大衆歌謡「トロット」と日本の「演歌」は、メロディ、リズム、特徴的な音階、こぶしをきかせた歌い方など多くの共通点があり、ルーツが同じだという説もあります。トロットは韓国演歌とも呼ばれ、「釜山港へ帰れ」はNHK紅白歌合戦で歌われたことがあるほど日本でも親しまれています。戦前の韓国では、日本の演歌が翻訳され韓国人歌手によって歌われることもあったようです。

 

日本でも翻案された韓国の歌が人気を得たことがあり、1970年代後半以降は桂銀淑ら韓国人歌手が活躍しました。

日本独自の音楽「演歌」

演歌はもともと自由民権運動の演説歌で、大衆化されたのちに商業化しました。1960年代に地位を築いてから多くのヒットを送り出してきた演歌ですが、現在では多様な音楽ジャンルの一つとなっています。こうして歴史を紐解くと、演歌は意外と歴史が浅く、新しい音楽だということに気づくでしょう。

 

日本独自の音楽として根付いている演歌は、今後はどのようになっていくのでしょうか?
演歌の未来について語るヒャダインさんの記事も併せてご覧ください。

 

「演歌は「限界集落」なのか~ヒャダインの歌謡曲のススメ#4」

https://www.utabito.jp/feature_article/6077/

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