【第15回】コロムビア制作部後期の頃⑮「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.4.2

レコード大賞にウィンクが参戦

この年のレコード大賞は十二月に入っても対抗馬は現れず、スポーツ各紙は“美空ひばりレコ大大本命”と報じ始めた。

私は密かにレコ大初の四冠を狙って激戦と言われている最優秀新人賞候補のマルシアと第一回美空ひばり賞候補の松原のぶえの票固めに走り回っていた。

マルシア陣営のナベプロ諸岡専務とは頻繁に会って作戦会議を行った。一方の松原のぶえ陣営の北島音楽事務所の大野専務は私には異常に思えるほど熱心だった。

彼は○×△の星取表を持って毎晩のように六本木の私の寝ぐらに来ては朝になると帰って行った。

星取表は審査員の状況が変わる度に書いては消し、その上に又書きこむためボロボロで○だか×だか分らなくなっていた。

「何回チェックしても同じですよ。もう止めて寝ましょうよ」

私がギブアップしそうになって来ると、彼は反対に目をギラギラさせて、さぁこれからだ!と張り切り出す。

そんな彼と知り合ったのは何年前になるのかなぁ。確か私が制作部に配転になって初めて新人松原のぶえを手掛けた時に出会ったのが最初のはずだ。松原のぶえのデビュー前のボイトレに何回か立ち会ったが、このトレーニングが強烈だった。

「のぶえ!膝で歌え!膝から声を出せ!」

“膝が笑う”は聞いたことがあるが膝が歌うなど聞いたことがない。

「頭のてっぺんから声を出してその声で目の前のロウソクの火を消せ!」

マジシャンに言っているなら理解できるが、大分の高校を卒業し上京したばかりの十八歳の女の子に向かって怒鳴っている。私は大変な業界に足を踏み入れたと反省した。

そんな熱血漢の彼と議論するのは、その頃になると少しは慣れてきていたが、毎日続いたのには参った。

彼が言っていた膝で歌うのもロウソクの火を消すのも時を重ねて私にも少しは理解できるようになってきていた。今思うと大野専務と出会ったあの頃は小学校入学と同時に大学の授業を受けたようなものだと思っている。

レコ大のシーズンになると審査員への売り込みも大変だったが、勝った時の打ち上げの接待準備も大変だった。

恒例になっていたが赤坂プリンスホテルの旧館を早くに予約し準備を怠らなかった。売れっ子タレントの大晦日の夜のスケジュールは先ずテレビ東京の「年忘れにっぽんの歌」から始まり、TBSのレコ大の会場に移動、最後はNHKの紅白で終わる。NHKでは紅白が終わるとNHKの食堂で打ち上げがあり、それが終わってやっと赤プリのコロムビアの打ち上げ会場にタレントは姿を現す。その頃には既に年が改まっている。

今年一年お世話になった業界の人達やレコ大の審査員をその時間まで待たせることになる。この待ち時間を楽しんで頂くために、酒は勿論、賞品をいっぱい用意して福引大会、ビンゴ大会、カラオケ大会など毎年工夫していたが、マンネリになっていて参加者もボチボチ飽きてきていた。

私はマンネリ解消のひとつとして、赤プリ旧館の一番大きな部屋でカジノを開くことを思いつき、業者に交渉すると大晦日でもOKだった。さすが東京の街は利用者が多いらしく、ルーレット、カード、スロット等一式とチェックの服を着た専門家が手配された。

この業界の人なら海外で少なくとも一度や二度はカジノで遊んでいるはずだと思って企画したら、これが大当たりで沢山の人が待ち時間を楽しんでくれた。当たり前のことながら、勝つ人と負ける人がいる。私達接待する立場では負けた人が機嫌を悪くしても困る。私は密かにドル紙幣を負けていそうな人に少しずつ配って廻った。後でこれが会社にバレて大目玉を喰らい大成功だったカジノも一回限りで終わった。

 

この年も大晦日の準備も万端、あとは結果を待つだけだと思っていた頃、元小林プロに居て私と一緒に演歌歌手たかだみゆきのプロモーションをやったことのある丸山氏から突然電話があった。

「ご無沙汰してます。突然で申し訳ありませんが、コロムビアで押えている赤プリ旧館の一部屋を私のところに譲ってくれませんか?」

いきなり何を言い出すのかと思って

「丸さん、何に使うの?」

私の問いに彼は言い辛そうに

「はぁ。私は今、ポリスターで宣伝部長をやってますが、実はウィンクがレコ大に参戦することになりました。無いとは思いますが万が一を考えまして…」

この土壇場になってそれはないよと思ったが

「丸さん、考えておく。丸さんの頼みだ。悪くはしないよ」

と言ってはみたものの何かおかしい…。

私は早速TBSレコ大事務局へ問合せたが要領を得ない。親しい審査員の先生に聞いてみると

「この場になって急遽ウィンクの資料が送られてきた。一体何を考えているのかね」

と半ば呆れていた。

師走の混戦の中、ウィンクの『淋しい熱帯魚』が大本命美空ひばりの

『川の流れのように』の対抗馬として姿を現した。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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