【第16回】コロムビア制作部後期の頃⑯「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.4.3

レコード大賞大敗とコロムビア退社

ウィンクがレコード大賞に参戦する。私はTBSに事の真意を確かめたが、明確な答えは得られなかった。

「弟子丸さん、変なこと考えたら私はTBSの玄関で首吊りますよ」

「なに馬鹿なこと言っているんですか。今年はコロムビアとうちとは深い付き合いになりましたね」

と、暗にTBSはコロムビアの味方ですと受け取れるような言葉に私は安堵したが、不吉な予感が完全に無くなった訳ではなかった。

ポリスターの丸山氏からの電話以外、マイナスの材料はなく、大方の見方は美空ひばりの『川の流れのように』がレコード大賞を楽勝で受賞するだろうという流れで変わらなかった。

私はこの年初めての試みとして大晦日にコロムビアの地方営業所にいるプロモーターを東京本社に招集し、地方審査員の票の最後のチェックを行わせた。

審査員の東京での宿泊先ホテルを突止めるのに相当時間を要したが、結果、この時点でも全く大賞については問題がなかった。美空ひばりの『川の流れのように』が大賞を受賞するのはもはや疑う余地は無かった。

票のチェック作業を終えた地方プロモーター全員をレコ大会場の日本武道館に送り出した私は誰も居なくなったコロムビア三階の自分のデスクで残務を終え午後三時頃、武道館に向かうべくエレベーターに乗った。だが、地下一階まで行くはずのエレベーターは途中で止まってしまった。今まで経験のない出来事に私は戸惑った。しかも誰も居なくなった大晦日である。

エレベーターの中から非常電話や非常ベルを使って外部と連絡を取ろうとしたが、全く反応が無い。この時間、地下の守衛室に二、三人は誰か居るはずと思いドアを強く叩いてみたがこれにも応答が無い。

私は焦った。酸欠にならないか?最悪ここで越年か?良くないことばかり考え始めていた。まさかレコ大に異変が…。

止まったエレベーターの近くに人の足音が聞こえた。私は大声で助けを求めた。

閉じ込められて十五分ほど過ぎてやっと救い出され、私はタクシーで武道館に急いだ。

激しく競ったその年のレコ大の放送が武道館から生放送で始まった。後は祈るだけの心境だ。

新人賞ではマルシアが最優秀新人賞に選ばれ、第一のハードルを越えた。

面子をかけて戦った第一回美空ひばり賞は一票差で松原のぶえに軍配は上がった。石川さゆりが最優秀歌唱賞に輝き、残るは大賞の発表のみになった。緊張はピークに達していた。舞台の裏にTBSの現地本部があり、私はその近くのモニターで様子を見ていた。

坂東英二、三雲孝江の司会がいよいよ大賞の進行に入った。テレビ画面に審査会場の様子が映し出されている。用意されたホワイトボードに開票された得票が正の字で書き加えられてゆく。

アレッ!ウィンクに票が入っている。しかも伸びている。何だこれは!

何が起こったのか!しまった!TBSの現場責任者の塩川氏の顔が青くなった。

私はこの瞬間、今起きていることを把握し、画面の映像切り替えを叫んだ。これ以上恥を晒すことは何としても避けたい。私は必死で頼んだ。

CM明けの画面に映し出されたウィンクの喜びのアップ映像を観て私は気が薄らいで行った。

TBSからの要請でタキシードに装ったひばりプロ社長加藤和也さん、作詞の秋元康さん、作曲の見岳章さんは会場内客席に居た。恥をかかせてしまった。レコード大賞はそう簡単な方程式で解けるものではないことを嫌というほど知らされた。

あの日十一月十四日にTBSの会議室で行われたノミネート会議で私はエントリーしないという自分の信念を貫けなかったことで多くの人に迷惑をかける結果になった。申し訳ない。正しいと思ったことを貫けなかった私が弱かった。

早速、私は武道館から和也さんと一緒に青葉台のひばり邸に行き、ひばりさんの仏前に詫びた。三十三年間勤めた大好きなコロムビアを辞める決心をこの時固めた。コロムビアの看板あっての私。美空ひばりあっての私。いろいろな思いがよぎり、今決めた自分の覚悟に改めて仏前で姿勢を正した。

 

私はひばりさんと同じ昭和十二年生まれの五十二歳。この年、私は人生の中で最も多くのものを失った。人を信じるということは、こんなに怖いものか!信頼とはこんなにちっぽけなものだったのか…。人間不信に陥った。

特にTBS系列の票が一人を除いて全てウィンクに投じられたことは最大のショックだった。美空ひばり全国葬に協力頂いた人達だった。

また、長年に亘りお付き合い頂いた知人を沢山失った。特に地方局の人達とは土地の名物料理を肴に酒を酌み交わし、仕事の夢を語り合った仲だった。あの人、この人、あの顔、この顔が遠くへ遠くへ消えて行くのがとても寂しかった。

だが今、あの時レコ大の戦いに敗れた『川の流れのように』は多くの人々に愛唱され、昭和を代表する名曲として平成の世を大河となって流れている。

 

この章終わり

 

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

関連キーワード

この特集の別の記事を読む