【第17回】生い立ち①「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.4.4

天運の強い子供

私にとって激動の一九八九年も終り、年が改まってすぐ私はコロムビアに辞表を出した。

五十二歳の働き盛りだったが心はクタクタに疲れていた。初めて書く辞表。便箋を前に筆を取ると未練なのか、走馬灯のように在籍三十三年間の様々な出来事が甦り、なかなか書けなかった。

気分を変え届いたばかりの年賀状を見ていると、ふっと人恋しくなり古いアルバムを開いてみたくなった。ゴルフの写真が多い。一緒に写っている人達が誰なのか思い出せないものも沢山あり、ゴルフに興じた日々の多さを物語っていた。

私は元来写真を撮られるのが苦手だったこともあって、仕事関係の写真が極端に少なく、まして仕事でご一緒したアーティストとのツーショット写真が無いことに気付いた。チャンスはいっぱいあったはずなのに…。有名なアーティストと一緒の写真を沢山撮っておけばいつか自分の孫たちに見せ自慢できたのになぁ…。辞表提出を前に気付いてももう遅かった。

そもそも音楽業界に入り予期せぬ生き方をしてきたきっかけは大阪での大学生活に失敗し、食べる為に始めたコロムビア大阪支店の倉庫でのアルバイトだった。

都会に憧れ大阪に出て勉強をし、将来の夢を育むはずの私は何も見いだせないままズルズルとコロムビアでアルバイトを続けていた。だが私はここを振り出しに商品管理、営業、制作宣伝と二十回近く部署を変え、結果三十三年間もコロムビアにお世話になった。私に音楽の専門知識があった訳でもなく、歌が好きだった訳でもなく、むしろ苦手で嫌いだったのに…。自分でも不思議に思っている。

昭和三十二、三年当時、田舎から都会に出て来た若者達は身を粉にしてよく働いていた。私もそんな若者の一人として負けずに働いた。陰日向なく、好き嫌いなく無欲で働いた。その日暮らしだったが、何ひとつ不満がなかったのは、貧しかった子供の頃に培われた忍耐強さのお陰だったと思う。

今も私の大好きな言葉に〝転がる石に苔むさず〟というのがある。これは父に影響を受けている。〝昼行燈〟と言われていた子供の頃の私に父は

「おまえの将来はお寺の小僧になる道しかない。それが嫌なら身体を使って、人様の倍働け。それでやっと一人前になれる」

と、事ある毎に言っていた。一方、母は出来の悪い私を心配して

「貧しくても他人様に決して迷惑だけはかけずに生きてほしい」

と、いつも言っていた。

もう両親ともこの世に居ないが、私にとって尊い教えとして活かし、私は今日まで生きてきた。

今年七十九歳。身長百六十七㎝、体重五十七㎏、今も元気に働いている。

 

私は昭和十二年三月二十一日、大阪の淀川沿いにある毛馬という所で五人兄弟の長男として生まれた。

境という苗字は祖先が熊本城築城の際に城大工として奉公し、殿様から頂いたものだと聞かされていた。この境の苗字は西南戦争の激戦地、熊本県の田原坂近くにある植木町に多く点在する。境家は西南戦争時にはこの地で庄屋をしていたが、田原坂の戦いの際、薩摩軍の物資を預り隠した罪で全財産を没収されてしまった。その為孫であった私の父は苦学の末、当時の大阪工専を卒業し関西電力に就職して家計を支えた。

私が生まれた頃、父は関西電力の毛馬の変電所に勤務していた。

母は父とは対照的に東京小石川の料亭の娘として裕福な家に育った。当時の高等女学校を卒業し、ベルベット石鹸という会社にタイピストとして勤めていた。そしてその頃父と出会ったようだ。

そんな両親を持つ私は身体が弱かった。生まれて間もなく肺炎に罹り、医者もこの子は助からないと匙を投げたが、両親は諦めず私の命を取り戻した。

後に祖母から聞いた話では、湯を沸かし襖の紙が剥がれるほど水蒸気を充満させた部屋の中で両親は仏壇に手を合わせひたすら祈り続けたそうだ。

この行いが医学上正しいかどうかは分らないが、私は一度止まった息をまた吹き返したそうだ。

一瞬にしろ、息が止まったせいなのか私は幼児の頃から反応が鈍く、何をやっても他の子供とはちょっとずれがあり、ぼーっとした子供に育っていった。

やがて近くの赤川国民学校(今の小学校)に通うようになる。その頃の記憶はあまりないが天運の強い子供だったようだ。

例えば住んでいた社宅の近くにある橋の上から河原へ落ちた際、岩と岩の間の僅かな砂地に落ち、奇跡的に助かった。また、近くの池の水草の上にとまっているオニヤンマを獲るのに夢中になり溺れたが釣り人に発見され人口呼吸で一命を取り留めたこともあったらしい。

太平洋戦争末期の砲弾飛び交う鹿児島へ引っ越してからの生活では危機一髪助かった出来事が沢山ある。兎に角、天運に恵まれた子供だったようだ。

この天運の強さとその後父に鍛えられた丈夫な身体こそが私の人生の縦糸になっているような気がする。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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