【第18回】生い立ち②「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.4.5

戦争と私

太平洋戦争が激しくなってきた昭和十八年、国策により、父が鹿児島の高千穂電機と云う軍需工場に責任者として赴任することになり家族で引っ越すことになった。

引っ越しに当たって父は

「戦争は必ず勝つ。勝ったら欲しいものは何でも買ってやるから生活必需品以外の物は捨てて行く」

と言って家族を困らせた。

母と私達兄弟は父の言いつけ通り、体ひとつで大阪から鹿児島に引っ越した。私はいいが、二歳年上の姉は大切にしていた人形などを捨てなければならず可哀相だった。

錦江湾を挟み白煙を上げる雄大な桜島を眺める鹿児島での生活ではあったが、父は工場に泊り込み、帰って来ない。周りには知り合いは誰ひとり居ない。その上、九州の中でも鹿児島弁は独特で会話が全くと言っていいほど通じない。学校で先生の話も理解できず、よく笑われた。

ただでさえ、ぼーっとしていた私はだんだん孤立していったが、一人で居ることはあまり嫌いではなかった。

その頃私達が住んでいた下荒田という町では沖縄戦の次に米軍は必ず鹿児島に上陸して来るという噂が大人たちの間で広まっていた。小学校でも勉強より竹槍の練習や防火訓練などに時間を割いていた。

私が二年生になった頃には噂通り鹿児島湾に米軍の潜水艦が出没し艦砲射撃が始まり出した。

そしてついに鹿児島市上空にも米軍の戦闘機や爆撃機が飛来して来て爆撃が始まった。

父の居ない私達家族は空襲警報のサイレンが鳴る度に町内の防空壕に逃げた。

近くでもの凄い地響きがして爆風と一緒に鉄の破片が飛んで来る。家のガラスが割れる音がする。私は恐怖で震え、防空壕の天井から落ちる砂を被りながら母の腕の中で爆撃が終わるまで耐えていた。

父が工場長を務めていた軍需工場は薩摩半島を市内から少し南下した宇宿という所にあり、それより更に南下した谷山という所にも別の軍需工場があった。その為この辺りは米軍の攻撃の標的になっていた。

薩摩半島最南端の町、指宿と鹿児島を結ぶJR指宿枕崎線では当時この二つの軍需工場の近くを列車が通過する際、車窓のカーテンを閉め工場が見えないようにしていた。

この二つの工場の裏側にむらさきという小高い高地があり、此処で夜になると婦人会の炊き出しが行われた。

私達子供は炊き出されたおにぎりを背中に背負って、海岸線で防衛にあたっている兵隊さんの元に上級生に引率され運ぶのが夜の役目になっていた。

昼間は近くの鴨池飛行場へモッコ(綱で編んだ運搬道具)を担いで滑走路の整備に出たり、とても勉強する状況ではなかった。

当時の写真は一枚も無いが、この頃の子供の外出時の服装はすごかった。

頭に防空頭巾を被り、足にはゲートルを巻き、上着の胸には住所、氏名、年齢、両親の名前に加え血液型が書いてある布が縫い付けられていた。私は自分の血液型がAであることをこの時知った。

米軍の上陸が迫って来たのかその頃の鹿児島市街は空と海から猛攻撃を受けていた。

鹿屋にあった空軍基地から迎撃に向かう日本の戦闘機と米軍機の空中戦が私達の目前で繰り広げられていた。

飛行機の性能の差なのか日本の戦闘機は竹トンボが落ちてくるようにヒラヒラと落されていたが、時には米軍機が落とされることもあった。

近所の人達は落下傘で舞い降りた兵士を捕まえる為に鋤や鎌を持って、その都度集まっていた。私の知る限りでは兵士は全て黒人兵だった。何を意味するのか兵士が身に付けている装備品は全て一度も使用されていない新品だった。

軍関係者の最大の関心は捕まえた兵士が持っている攻撃目標が記された地図にあった。

父の話ではどの地図にも父の工場の場所に大きく赤で印が付けられていたらしい。子供心にも鹿児島市内は危ない!と思った。

私達家族はより安全な住まいを求め、農村部の笹貫という所に引っ越したが此処も安全ではなかった。

ドカーンと大きな音とパチパチと竹を割るような音が突然聴こえ、私達の家の裏山が動き出した。

裏山に落ちていた時限爆弾が爆発した時のことである。私は逃げ遅れ、崩れて来た山の土砂に押し流されたが、運よく家の横にあった使われていない古い井戸に落とされ助かった。

それからひと月も経たないうちに今度は深夜、私達の家の中に爆弾が落ちた。

屋根を突き破るもの凄い音で目を覚ますと、部屋の中が昼間のように明るかった。後で知ったがそれは焼夷弾という六角形の形をした筒状の照明弾だった。

この時も家族は素早く防空壕に逃げたが、グズの私は又逃げ遅れてしまった。米軍の戦闘機に狙われた私は、無我夢中で茶畑の茶株に頭から飛び込んだ。直後、戦闘機は私の頭上を通過して行った。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

関連キーワード

この特集の別の記事を読む