【第19回】生い立ち③「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.4.8

鹿児島から熊本への工場大移動

「お父さん、また引っ越すの?」

「そうだ! 時間が無いからすぐ引越しの準備をしろ」

父は詳しく説明しなかったが、工場の人の話ではその頃になると工場では、人間魚雷の部品の製造に追われていたらしい。多くの学生が動員され昼夜を通して操業していたが、この地への米軍の攻撃は日増しに激しくなり、鹿児島での工場操業は無理だと判断した軍の要請でより安全な所への工場移転が議論されていたそうだ。

海岸から離れていることや、短期間に移動が済むことなど検討された結果、九州地図を四つに畳むと出来る折り目の中心に熊本県の砥用(ともち)という小さな山間の町が工場の移転先に決まった。

九州山脈のほぼ中央に位置し東に宮崎県の高千穂峡、北に阿蘇の外輪山、南に平家の落人で有名な五家荘があり、三方を高い山で囲まれたまるで袋小路のような所にこの町はあった。空からの攻撃が出来づらい地形だった。

父の工場移転が始まった昭和二十年の春から夏にかけて、鹿児島市内は大空襲に襲われ一面焼け野原になった。多くの犠牲者が出た。

戦禍の中、鹿児島から熊本への移動は列車で行われ、工作機械が優先的に運ばれた。人の移動は技術者、正規社員の順に行われ、最後に学生と社員の家族が異動することになった。

私達家族も出発の日、日暮れを待って笹貫の家から歩いて西鹿児島へ向かった。どれくらいの距離だったのか分らないが当時八歳の私は母に手をひかれ一晩中歩いた。

焦土と化した市内には沢山の人の死骸が横たわっていた。そんな恐ろしい状況の中で今でも強く脳裏に焼き付いているのが、農耕用の馬や牛など大型家畜が米軍の機銃掃射に遭い臓物を出し倒れている光景だった。中には月明かりでもはっきり見える位ウジ虫が付いているものもあり、しばらくの間、思い出しては気持ちが悪くなっていた。

やっと目的地の西鹿児島駅に着くと駅には無蓋車(屋根の無い貨物車)が待っていた。車体にトムという記号があったように記憶している。

私達家族は学生達と一緒に、その屋根の無い貨物車に乗り込んだ。

鹿児島から熊本へは通常海側を走る鹿児島本線を利用するが、敵に狙われないようにこの日の移動は山岳地帯を走る肥薩線で行くことになった。

肥薩線は熊本の八代から鹿児島の隼人までのローカル線で現在は観光鉄道として人気が高い。日本三大急流のひとつ、球磨川があったり、霧島連山や国見岳の素晴らしい景色を楽しめる日本三大車窓が売り物になっているが山岳線だけに勾配とトンネルが多い。珍しいものに矢岳越えと言われる急勾配の難所があり、列車のスイッチバックやループ線などの工夫がしてある。鉄道ファンでなくても充分楽しめる路線だ。

当時私達はその山岳ルートを蒸気機関車が引っ張る無蓋車に乗せられ、目的地の熊本へと向かった。

標高差五百メートル程の登りをまさにシュッ、シュッ、ポッポともの凄い黒煙と大量の蒸気を出して列車はフルパワーで走って行く。

トンネルに入る前にポーッと汽笛が鳴るとその都度皆、タオルで口と鼻を押さえ煙を吸わないよう頑張ったが、いくつもの登り坂のトンネルを通過し中継駅の人吉に着いた時には全員、顔も髪もタオルも手も煤で真っ黒で誰彼の区別がつき難くなっていた。家族同士、学生仲間同士、互いの真っ黒な顔を見て大声で笑い合い明るい雰囲気になった。人が笑うのを見るのは久しぶりのことだった。

列車はこの人吉駅で給水の為しばらく停車する。その間を利用して真っ黒な顔を洗う為、駅にたった一つあった水道に人々は列を作って並んでいた。

「これから先は下りになり煙があまり出ないし少し我慢すれば八代近くの鉄橋の下に球磨川の広い河原があるから、そこで身体を洗おう」

誰かが提案すると全員が賛成した。だがこの判断が大変な惨事に繋がった。

列車は人吉で給水を終え、八代へと球磨川に沿って下って行き、八代手前の鉄橋近くで止まった。

目の前に広々とした河川敷が広がっていた。煤で真っ黒な顔の人々は我先にと河原へ降りて水浴びを始めた。

裸になる人、キャーキャーとはしゃいで水を掛け合う人、それぞれの人がさっぱりとした顔になっていった。

だがそんな束の間の喜びを打ち砕くように米軍の双胴体の戦闘機が低空で現れ、機銃掃射を始めた。人々は慌てて鉄橋の下に隠れたり、貨物列車の車両の下にもぐり込んだり、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。

私は母に手を引かれ車両の下にもぐり込み難を逃れたが、数人の学生が逃げ遅れ河原に倒れて動かなくなっていた。

激しい攻撃が終わった後、河原で動かなくなった仲間の煤で真っ黒な顔を濡れたタオルで綺麗に拭いてあげている一人の学生の姿があった。それは哀しく、強く印象に残っている。

大戦末期、大人は戦場に学生は軍需工場に動員された時代の悲劇である。

球磨川は何事もなかったように流れていた。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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