【第20回】生い立ち④「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.4.9

敗戦と貧乏暮らし

線路の上を歩き始めた。

振り返ると機関車は間欠泉のように高く蒸気を噴き上げている。復旧の見通しはない。母と私達兄弟はそれを見て目的地まで歩いてゆく覚悟を決めた。

球磨川の惨事はあったが工場の大移動は終わった。人口一万にも満たない山間の町に突如三千人の工員とその家族が雪崩れ込んで来た。町の協力を得て農家での下宿も整い、工場の機材の設置も完了し操業を再開して間もなく、終戦を迎えた。

戦争に負けた。敗戦を知らせる号外を前に家族抱き合って泣いた。今日までの苦労は…。若い学生の死は…。無念だった。

子供心に戦争は大嫌いだと思った。これからどうなるのか、ラジオも無いこの町には情報は全く届かず、悪い噂ばかりが広がった。

米軍が来て女子と子供を連れ去り、日本の兵隊と軍に協力した人達は殺されるか逮捕されるそうだ。そんな噂に町の人達は動揺し、山の奥深くへ隠れる人が沢山いた。その中に私の父もいた。父は見つかったら必ず殺されると思っていた。平家の落人で有名な山里が近くにあり、父はそこへ逃げた。

「戦争は必ず勝つ。勝ったら欲しいものは何でも買ってやる」

父の言うことを信じ、何も持たずに来たこの町で母子で裸一貫の生活が始まった。貧しかった。米のご飯を食べている農家の子供が羨ましかった。

この時私は八歳。子供心にいつか農業をやって白いご飯を腹いっぱい食べようと夢見た。戦争は負けた後が惨め過ぎる。

私はお寺の分教所に朝早く起きて通った。手に提灯と弁当を持って足半(あしなか)という普通の藁草履の半分しかない小さな草履を履いて通った。

お寺の分教所での授業は教科書もノートも鉛筆も無い。あるのはガリ版刷りの薄い本だけだった。天気の良い日は近くの草むらにゴザを敷いて弁当を食べていたが私の弁当には米のご飯が入ってなく恥ずかしかった。

そんな食糧難の時代、家に帰ると母はいつもおやつを作って待っていてくれた。ふかしたジャガイモを潰し塩と少々の甘みを加えて味付けしたポテトサラダの代用品みたいなものだったが、私は大好きだった。母の愛情がたっぷり練り込まれたおやつの味は終生忘れられない。今でも一番好きな食べ物はと質問されると迷わずジャガイモと答える。

この町の学校に外から転入したのは私だけだった。なかなか馴染めなかった。遊びの群れからはじかれ、村八分状態が続いた。よく苛められた。肌の色が白かったことや、熊本弁がうまく喋れなかったことなどが原因だったようだ。

〝よそ者〟と陰口を叩かれ、大人たちは〝昼行灯〟と言って私を馬鹿にしていた。昼の明るい所で灯いている行灯。役にたたない。存在感が無い。ぼーっとしている。良いイメージはひとつもないが私はあまり気にしなかった。悔しいとも思わなかったが母だけは違った。

母は〝昼行灯〟の私に真正面から向き合ってくれた。馬鹿にされたり苛められるのは私の心の弱さにあると思った母は、私が苛められて家に帰ると用意された木刀を手渡し仕返しを命じた。そして仕返しが出来るまでは帰っても家に入れてもらえず、夕食も抜かれた。それでもまだ私は自分の為の厳しさだと受け取れず、仕返しが出来ない時は庭の鶏小屋で鶏と一緒に寝たことも度々あった。

だが一度、生涯忘れられない苛めに遭った。母が自分の着物の裾を切って作ってくれた下駄の鼻緒を苛めっ子達に切られた。花柄模様の切られた鼻緒を見て母に申し訳ないと思った。悔しかった。家に帰り、いつもの木刀を持ち出し、母に命じられた仕返しではなく。自分の意志で仕返しに行った。大袈裟な言い方だが、死ぬ覚悟で戦った。

翌日学校で話題になった。

「境はギュギュ持ちで腹かくと、やおういかんばい」

地元の方言だが要はキレる性格で怒ると手が付けられないという意味だ。噂は町中に広がり、苛めは次第に減っていった。逆に友達が出来るようになった。二年近くかかって、やっとこの町の子供になれた。

その頃には山奥に逃げていた父も帰っていたが、十分な収入は無く貧乏生活は続いた。

父は工場跡地を開墾して食料の自給を始めた。他に現金収入を得る為、自宅に自分で作った機械で椿の実や菜種から食用油を搾る商売も始めたがそれでも足りず、町の人も近寄らない山の中の火葬場のすぐ近くにロクロ工場を造り、出来た商品を熊本市内に卸していた。

トネリコという木で野球のバットも作っていた。

その頃の私は親の手伝いが忙しく、昼は畑仕事と油搾り、夜はロクロ工場の夜警をした。生活の為とは言え、姉と二人で下肥(人糞)を山の畑に運ぶのは辛かった。天秤棒で担いでテンポを合せて運ぶのだが汚れるし臭いし、それ以上に天秤棒が肩に食い込む痛さは子供の限界を遥かに越えていた。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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