【第21回】生い立ち⑤「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.4.10

ガキの頃の遊び

子供の頃…というかガキの頃はよく働いてよく遊んだ。四季を通じて、山間のこの町の子供の遊びには知恵がいっぱい詰まっていた。

夏、川では水泳は勿論、潜って鉾で魚を刺したり、箱メガネと呼んでいた箱の底にガラスを張ったもので川底を見て岩陰にいる魚を捕まえたりした。

町の子供達がハイコンと言っていた漁法がある。先ず二十センチ程の杭に蠟引きした太めの糸を結び、糸の先の釣り針にミミズを付ける。そしてその杭を土手に打ち込み固定し、糸を川に流す。それだけの簡単な仕掛けだ。

日が落ちて暗くなってから仕掛け、他の子供達に見つからぬよう草で杭を隠し目印を付ける。翌朝、日の出前の暗いうちに仕掛けを引き上げる。狙いはウナギだったがナマズやスッポン等が獲れ、子供達はそれを売って小遣いを稼いでいた。

この遊びの欠点は暗い時間帯に目印を付けるため、仕掛けを引き上げる時に位置が分らなくなったり、少しでも遅れて引き上げに行くと他の子供達に横取りされたりしてしまうことだった。喧嘩になることもあった。夜中に雨で川が増水すると仕掛けが流されないようにカーバイトを燃やしたランプを持って見回りに行くのも大変だった。それでも獲物が獲れると嬉しかったし、楽しかった。

山の遊びも面白いものばかりだ。中でもタヌキ獲りは最高に面白い。一人では無理なのでいつも四、五人で組んでやった。

タヌキの糞を探し、近くにある巣穴を見つけると、穴の前であらかじめ用意した大鋸屑(おがくず)に料理用の唐辛子を小さく刻んで混ぜたものを燃やし、その煙を団扇で扇いで巣穴に流し込む。すると必ず近くに煙が立ち上る所があって、巣の抜け穴の出口だと分る。そこに野球のバットを持った子供を配置し準備完了だ。タヌキ獲りはそこまでの作業に大半を費やす。後は巣穴の中にタヌキが居ることを信じて煙をどんどん穴に流し込むだけだ。

しばらくするとタヌキは唐辛子入りの煙に耐えられず、涙を流し泣きながら抜け穴から顔を出す。そこを狙ってバットでコツンと叩く。タヌキと子供達との根比べである。面白かった。毛皮を鞣し襟巻にすると、小遣いにもなった。

他に山遊びのレギュラーと言えば、種メジロを使ったメジロ獲りだ。町でメジロの品評会があったので、子供達は競って何羽も育てていた。

ガキの頃の一日は山に川に夢中で遊び飽きなかった。

昨年末、所用で実家に帰った時、その頃のガキ友と酒を酌み交わし、子供に還って盛り上がった。

時代は変わり、タヌキ獲りの為に山で火を燃やすなどとんでもないことで、今では町でも昔の思い出話として残っているだけだと言う。

メジロも沢山いるが家で養うのは動物愛護の観点から一軒に一羽と限られているらしい。

あれから何年たっただろう。私も晩年を迎え、これらの幼い頃の思い出は抱きしめたくなるほど懐かしい。

一方、その頃の父は軍需工場だった跡地を整理し町に建設資金として寄付すると、残った僅かな資金で人を雇い製材所を始めた。寄付する金はあっても生活費は少なく、いつまでたっても貧しかった。それでも母は惨めな顔ひとつ見せずにいた。

製材所に隣接する自宅は常にキィーン、キィーンと電動鋸で木を挽く音が煩(うるさ)く、家族間の会話もついつい大声になった。夕方、工場が終わると急に静かになり、人の声がいやに大きく聴こえた。そんな環境での暮らしだった。

当時、父は晩酌を欠かしたことがなかった。呑むと子供達に説教が始まる。私がターゲットになることが多かった。

「昼行灯のお前は将来お寺の小僧になる生き方しかない。それが嫌なら人の倍働け。それでやっと一人前だ」

前にも書いたが毎回同じことを言われ耳にタコが出来るほど続いた。

そして酔ってくると歌を唄い出す。このド田舎には似合わない英語で『オールドブラックジョー』や『椰子の実』を朗々と歌い、子供達にも歌うよう促した。姉や弟は渋々付き合っていた。私は恥ずかしくて歌わなかったので父に火箸で頭を叩かれることも度々あった。

その頃から私は歌が段々嫌いになっていった。

学校から帰ると私は製材所の手伝いを夕暮れまで一生懸命やった。父に言われたように人の倍、働いていた。

父は大きな軍需工場から田舎の小さな製材所の親爺になったのが惨めだったのか、日に日に酒量も増え私を苛め始めた。

「お前は俺の子じゃない。橋の下で拾ってきた子だ」

「何言ってるの。この子は私が生んだ大事な子よ」

母が私を庇うと夫婦喧嘩に発展する。江戸っ子の母は決して負けていない。物が飛び交う中、私達子供は耐えていた。

ある晩、酔っ払って部屋の入口で大の字に寝ていた父の体を私が跨いだことに、父は腹を立て大喧嘩になった。

私はその夜、家を飛び出した。母も幼い弟達を残し、風呂敷包みを一つ持って私の後を付いて来た。私は母に家に帰るよう説得を繰り返し、やっと家に帰ってくれた。行くあても無い中学二年の家出だった。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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