【第22回】生い立ち⑥「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.4.11

捲土重来 大阪への旅立ち

私は独立を決意した。中学を卒業したら働こうと思った。

家出した私は、私のことを心配してくれる中学の先生の家に取敢えず下宿することになった。飛び出してきた実家が見える位近くでの下宿だった。

先生の勧めで進路は全寮制で尚且つ官費で勉強が出来る逓信省直轄の熊本電気通信学園を目指した。私は猛勉強した。

追い込まれてからの勉強だったがパンをかじりながら頑張った。競争率は六十倍で中卒でも大卒でも受験資格はあった。頑張った甲斐があり私は補欠で合格し入学した。

中卒の私が受ける授業は主にモールス信号とタイプライターだったが、大卒のお兄さん達は電波法といった難しい勉強をしていた。

四人部屋だったので、夜皆が寝静まった後、私は押し入れに電気スタンドを持ち込み勉強した。生涯で一番勉強したのはこの頃だったと思う。

一度、母の希望もあって帰省した際、被っていた帽子がブカブカになる位痩せ細った私を見た母は私を抱いて号泣した。それほど勉強しやっと私は学園を卒業した。

その頃既に学園は逓信省から日本電電公社(現NTT)に所属が変わっており、私は卒業と同時に公社の福岡中央電報局に配属された。ここで初めて給料を手にした。十七歳になったばかりの頃で母も喜んでくれた。

福岡での生活も公社の寮住まいだった。毎日西鉄電車で通勤していたが変則勤務で夜勤もあった。

・―(イ)

・―・―(ロ)

―・・・(ハ)

―・―・(ニ)

通信オペレーターの仕事は毎日朝から夜までモールス信号を送受信するだけの単純作業だった。

半年後に本格的な配属として福岡県の福島町(現在の八女市)にあった八女電報電話局に転勤になり、未成年ということもあって、上司の家に下宿した。下宿先のお母さんは親切で私を自分の子のように扱ってくれた。

ここでの仕事は地元の農産物のお茶、筍、みかん等の出荷内容を取引先に伝える商業電報の送信作業が主で、未成年の私には夜勤は無い。福岡中央局に比べ楽ではあった。私はだんだん自分がこの楽な仕事を続けていくことに疑問を持ち始めた。

電電公社での仕事は父が口癖のように言っていた“人の倍働く”ことが難しかった。働こうと思っても労働組合があり、仕事の量は決まっていた。

中学校を卒業後、専門教育を受け、電電公社の通信オペレーターとして毎日単調な仕事に明け暮れ、やがて家庭を持って平凡に暮らすことが私にとって幸せなのか…。昼行灯と言われ続けた性格のままの人生で終わるのか…。一度しかない人生、それでいいのか…。

悩んだ結果、電電公社を退社し、父に詫びて二度と帰らないつもりだった実家に戻った。そして家業の製材所を手伝いながら二年遅れて地元の県立高校に入り、再スタートを切った。

余談だが今でも毎年春と秋に電電公社時代の同窓会がある。出席者は皆堅実にサラリーマン生活をやり遂げた人達だ。私のような異端児は珍しいといつも話題になる。

高校では野球部に籍を置いたが夏の甲子園の予選では三年間、全て一回戦でコールド負けだった。

枯れ木も山の賑わいと割り切っていたが、当時水前寺球場に三十円の入場料を払って入ったお客さんからは

「早く帰って畑の手伝いでもやっとれ!」

「三十円返せ!」

と猛烈なヤジが飛んできた。

私は皆よりも二歳年上ということもあり、地域の不良グル―プとの喧嘩も絶えなかった。私自身、正義と思ってやった喧嘩でも罰せられ、停学処分になることも度々あり母を心配させた。

出席日数ギリギリで何とか田舎の高校を卒業したが、東京の大学受験は全て失敗。大阪に創立されたばかりの大学に二次募集でやっと合格した。

私が実家の製材所を継ぐものと思っていた父は怒った。私は父の後を継ぐことなど全く考えていなかった。捲土重来、都会への挑戦を考えていた私を父は信用せず、いずれ泣きを入れて帰ってくると思ったらしく

「どうしても出て行くと言うのなら二度と家の敷居を跨ぐな」

母共々そう約束させられた。その時は私も不退転の決意で大阪で勉強して立派な大人になろうと思ったのだが一年ももたなかった。

母が持たせてくれた学費と生活費を私は人助けのつもりで困窮していると言うスナックの女性に貸してしまい、結局返ってこなかった。学校から授業料の督促が実家に届き、全て父にバレた。激怒した父は

「籍を抜け!」

と母に怒鳴ったそうだ。もうこれまでだ…。都会への挑戦は挫折し途方に暮れた。

生きる道はアルバイトしかなく、様々なアルバイトをやった。実家で三年間手伝った製材所の力仕事の経験が役に立ち、私は賃金の高い土建の仕事で生活を支えた。

昼は土建の仕事をし、夜は一発逆転を狙ってパチンコや掛けマージャンをしてみたものの、やればやるほど傷は深くなるばかりだった。

大阪でのそんなアルバイト暮らしの中にコロムビア大阪支店の商品倉庫での仕事があった。

この章終わり

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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