【第23回】コロムビア試用員時代①「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.4.12

大阪で味わったボロボロの青春

大阪ミナミの繁華街と糸商人の町船場の間を東西に走る長堀通りは今は地下に巨大な駐車場があり地下鉄が通っている。私がコロムビアの大阪支店でアルバイトをしていた昭和三十四、五年の頃まではそこに幅二、三十メートルはあったと思う長堀川が東西に流れていた。

ご存じ大阪では南北に通る道を筋と言い、東西に伸びる道を通りと言っている。南北の大動脈に御堂筋と堺筋がある。当時長堀川に架かったこの筋と筋の間に三本の南北への橋があった。川下から心斎橋、三休橋、長堀橋がわずか一キロ程の間に並んでいた。

三休橋の袂にコロムビア、長堀橋の角にテイチク、長堀橋を南に渡ったあたりにビクター、そして四ツ橋近くにキングがあり、長堀川の川沿いにレコードメーカーの出先が集中していた。

長堀川は決して綺麗な川ではなく大阪の繁栄を嘲笑うような泥の川だったが、ボロボロの青春期に毎日見て過ごした私には安らぎの川でもあった。

又、心斎橋の下には長堀川に浮かぶ船の居酒屋が当時まだ残っていて安く楽しめた。

私が心斎橋を語る時、忘れられないことがひとつある。心斎橋を渡り、アーケード商店街に入ってすぐ左にアタリヤという大きなパチンコ屋があった。私は此処へ昼夜ほとんど毎日通った。パチンコの勝敗が明日の生活に掛かっていた。負けたら飲まず食わずの一日になる。真剣だった。

当時のパチンコは左手親指で玉を入れ、右手親指で玉を弾くきわめて原始的なやり方だったため、玉がよく下に落ちた。

当時の私にとっては一個でも大切な玉だったので、その都度席を立って玉を拾った。台の下には沢山玉が落ちていてどれが自分の玉か分からず、同じ玉だからまぁいいかと手前のものを拾っていたが、このまぁいいかが段々エスカレートして一個落として三個拾う。それが五個になり十個になって気づいた。一個ずつ手で拾うより、磁石で吸い取る方が効率が良いのではないか。私は会社にあったU字型の磁石をポケットに忍ばせ出掛けるようになった。

しばらくの間は自分の周囲の玉だけを吸い取っていたが、何百台も並ぶこの大きなパチンコ屋の店内には沢山玉が落ちている。これを見逃す手はない。次の日から磁石を布の袋に入れ、客に見られても怪しまれないよう工夫してその袋を紐で引っ張って広いパチンコ屋の中を歩いた。

当時の鉄製の玉は面白いほどよく吸い取れた。会社の昼休みを利用して玉を吸い集め、それを元手に夜、稼いだ。バレて店員に叱られたことがあったが

「お客が玉に足を取られて転んだら危ない。これは本来店員さんの仕事だと思うが、私は暇だから代わってやっているんです」

と、屁理屈を言って大目に見てもらっていた。

今考えると二十三歳にもなって何とも情けない暮らしで恥ずかしい。

そんな私の暮らし方が遠く離れた母には見えていたのか、昔の父の友達で当時京阪電車の役員の方に長々と手紙を書き、息子は駅の掃除でもキップ切りでも何でもやります。よく働く息子ですので雇ってほしいと嘆願していたらしい。私は母からの要請でその役員に面会に行った。

その人は母からの手紙のことは何も言わず、本当に駅の掃除でもやる気があるのかと私に聞いた。

提示された条件を見ると住宅補助や通勤手当などがあった。この就職難の時代にありがたい雇用条件だと思い、私はその場で頭を下げた。

翌日アルバイト先のコロムビアに京阪電車へ就職することを報告すると、当時課長の小野さん(後に本社営業部長になられた)に一膳飯屋兼居酒屋に連れて行かれ

「君は仕事も熱心だし力もある。我が商品課として無くてはならない人材で将来有望だ」

と口説かれた。課長と将来のことを話すのはこれが初めてだった。北海道出身の課長の朴訥で優しい人柄に私は打たれた。

「京阪電車とコロムビアは会社の規模も同じだし慣れた仕事の方が良いと思う。早急に社員になれるよう考慮する」

とまで課長は言ってくれた。「大学は出たけれど…」という言葉が流行するくらい就職難の時代に「私を社員にする」というその言葉だけが耳に強く残り、京阪電車を断りコロムビアで働くことにした。

ところがこの「社員にする」というのが曲者で会社から貰った辞令には「試用員」と記されていた。お試し社員である。憧れていた胸に付ける音符マークの入ったバッチも無ければ、名刺も持たされなかった。仕事の内容も給料もアルバイトの時と同じだった。この試用員の期間が長かった。

当時のコロムビアは縁故入社が多く、○○レコード店の娘さんとか、支店長の遠縁の息子さんといった人達が四月の入社式で次々に新入社員として紹介されていたが、その中に私の名前は無かった。なんのコネもない私は後回しにされていた。

今更、京阪電車に就職をお願いすることはできない。私は次の春を待つしかなかった。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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