【第26回】コロムビア試用員時代④「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.4.17

大恩人 鎌田営業部長への想い

分厚い扉を開けた瞬間、大音量の音が飛び出して来た。当時は現在のようなマルチ録音ではなくオーケストラと歌の同時録音でド迫力があった。どこで歌っているのか女性の透き通った声が同時に聴こえた。大内さんに連れられてスタジオ見学した時のことである。

初めての録音スタジオに度肝を抜かれ、研修に来ていることも忘れ私は只々呆然と見ていた。

スタジオで働く人々は自分とは全く別世界の人間に思えたが、大内さんは部外者でありながらスタッフを呼びつけたり、指示を出したり、偉そうに振舞っていた。それだけコロムビア社内で営業部は力があった。

ストップウォッチを胸にぶら下げていた人とは盛んに議論していた。後になってその人が都はるみのディレクターとして有名な村松さんだと知った。

私はどうしてもスタジオの空気に馴染めず早く抜け出して次の研修に移りたかった。自分がここに居ること自体、恥かしくなっていた。もともと内向的で独りぼっちが好きな暗い性格の私にとって、この初めてのスタジオ見学は刺激が強過ぎ、そのことがトラウマになって、以降この業界に対し苦手意識を持つようになっていった。

スタジオと同じフロアに宣伝部があった。壁一面に隙間なくタレントのポスターが貼ってあり、ここでは課長の坂田さんが対応してくれた。

坂田さんは説明を始めたと思ったらどこかに消えて居なくなったり、話が飛んだり、とにかくチョコチョコ動く人だったので宣伝マンは細かく動く人でないと務まらない仕事だという印象を強く持った。

宣伝部に隣接してデザイン課があったが、ここは芸術家風の人が目についた。ベレー帽を被った人やパイプを咥えてルーペを覗いている人など専門職の集団に見えた。

そんなバタバタした初日の研修が終わって、文芸部、宣伝部など制作の仕事は私にはまったく縁の無い職種と思えた。関心も全く持たなかったが、一枚の商品がここから始まっていることは判った。川上はこのフロアだと思った。

研修三日目に行った川崎工場は面白かった。特にプレスの様子は自動化される前の手作業の時代だったので煎餅焼きにそっくりだと思った。

原盤を作るメッキ工場は専門的過ぎてよく理解できなかったが臭いが強く目が痛かった。臭いと言えば川崎工場全体にビニールが焦げたような臭いが漂っていたが、風向きによっては隣接する味の素の工場からもコロムビアとは比べようのない強烈な臭いが流れ込んでいた。

川崎工場で驚いたのは社員食堂の大きさだった。同じ敷地内に家電部門の製造ラインがあり、昼休みのサイレンが鳴ると我先にと食堂に殺到していた。私も二日昼食をここで食べたが、ひじきの煮物の量が多かったのにびっくりした。

一週間の個人研修の最終日は銀座の山野楽器と浅草のヨーロー堂で締めた。

この時、私が何十年後に再び川崎工場に、東京営業所に、そしてあれほど嫌いだった制作部、宣伝部に帰って来るとは夢にも思わなかった。

私のサラリーマン人生は自分の意思とは逆にどんどん流されて行ったように思う。

そしてこの研修で一枚の商品の命に大勢の人達が携わっていたことを自分の目で確かめることが出来た。この貴重な体験がその後の仕事に生かされた。

研修を終え大阪に帰る日、鎌田部長の元へ御礼の挨拶と研修の結果報告に行った。

「君はまだ若い。短気を起こさず将来のコロムビアの為に頑張ってくれ。ご苦労さま」

鎌田部長はそう励ますとお土産にと言って箱が入った紙袋をくれた。帰りの汽車の中で開けてみるように言われ、大事に頂いて帰った。

帰りも夜行寝台「銀河」だった。天井が低い窮屈な三段ベッドの上段に上がった。仰向けに寝ると天井が迫っていて寝返りも楽ではなかった。

そんな狭いベッドの上で早速鎌田部長から頂いた土産を開けてみた。中に真新しいピカピカの合皮の靴が入っていた。雨も降っていないのに一週間、ゴムの雨靴を履いていた私に靴のプレゼントを考えてくれた部長の優しく温かい心遣いに泣けた。

「オイ!本物の革靴が買えるよう頑張れ!」

靴箱の中から部長の声が聴こえた気がした。なかなか寝付けない。寝台車の低い天井を見つめているとまた涙が溢れだし止まらなかった。

私は鎌田部長の為に身を粉にして働こうと思った。早くセールスマンになって部長の下で役にたてる働きがしたい。大阪に着くまでずっとそんなことを考えていた。

頂いた靴はサイズが合わず履けなかったが、長い間自分の部屋に飾っていて、辛い時でも初心に帰れるお守りになった。

大阪に帰った私にはもう迷いはなかった。当時のコロムビアは縁故入社が多く、私はなかなか正社員になれなかった。給料も安かったが、残業でひとの倍働いた。華やかな都会の片隅で惨めな青春を送っていたが、いつか正社員になってセールスマンになる夢を持ち続けた。

この章終わり

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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