【第27回】島倉千代子とのエピソード①「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.4.18

被災地に島倉千代子の歌碑建立

ミュージック・リポート誌の「あの日、あの頃」の連載を依頼されたとき、お受けするか迷いに迷ったが、この機会に自分史の整理をしてみようと思い、同じ紙面に「新歩道橋」を長年連載中の小西良太郎さんに相談したら「遺言だよ」と言って笑った。

なるほどそういうことか!記録らしいものを何一つ持っていない私が引き受けるにはボケが始まる前に記憶を紐解いて遺言のつもりで始めればいいのか。

少しは気が楽になり、お引き受けしたが毎週約二千字近い原稿を二年間手書きで続けるのは大変だと思い、これもこの機会に今まで触ったことのなかったパソコンを学習しようと思った。

職場の仲間に頼んで私に一番適した機種を選び早速始めた。

面白い!こんな便利なものがあったのか!完全に嵌った。喜寿を過ぎての手習いである。早速原稿を打ち始めた。辞書で漢字を探す必要もなく面白くなり、時間が過ぎるのも忘れ深夜まで続けた。

だが何だか目が変だ。パソコンから目を離すと物が二つに見える。目薬を差しても変化はない。翌朝、車で出掛けたら走っている道が二本に見え運転できない。怖くなって近くの病院に駆け込み脳と目の検査を受けた結果、不慣れなパソコンの画面を長時間見続けたため、脳の外転神経と云うのが麻痺していると診断された。

「あなたの年齢だと八割近くの人が治らない」

医師はそう言って困った顔をしていた。

処方された薬はビタミン剤だったが指示通り飲み続けた。目を使わず休ませると、かえって目の筋肉が衰えたら困ると思い、自己流ではあったがリハビリのため信州蓼科のゴルフ場を歩くことにした。

片目でボールを打ち両目で遠くの景色を見て歩く。不便だったが治したい一心で暫く続けた。

三ヶ月が経過してやっと、二つに見えていたものが多少霞んではいるが一つに見えるまでに回復した。

完治するまでに半年近くかかり、改めて生活の中で普通に物が見えることがいかにありがたいか思い知らされた。

それ以来パソコンは使わず、手書きで原稿を書いている。一番の苦労は漢字がなかなか出てこないことだ。辞書を手元に首っ引きで悪戦苦闘の連載になった。

原稿用紙には朱の矢印があっちにもこっちにもあり、自分では解っているが提出できる代物ではない。ついに助っ人を頼むことにした。

作詞家の友利歩未さんにお願いすることにした。彼女はJCMの茂木会長の秘書を長く務めた人だったが、その後本格的に作詞家の道を歩み始めていた。

主語が必要だとか、字数が多すぎるので削ってほしいとか、漢字の意味が違っているとか…。要はゴチャゴチャの私の手書き原稿をパソコンで打ち、仕上げを手伝ってもらっている。本当に助かる。お蔭で何とか続けられる見通しが立った。

 

その友利から電話が入った。

「嬉しい報告です。私が書いた歌が歌碑になったそうです」

よほど嬉しいのかいつもより声が明るい。

「友利、本当か!詳しく話してみろ!」

「先程、コロムビアのひとから電話があり…」

華やいで喋っている彼女の様子が目に浮かんできて私も嬉しくなった。

「良かったな。本当良かった」

友利が島倉千代子に初めて提供した作品『おかえりなさい』の歌碑が東日本大震災の被災地、釜石市の根浜海岸にある旅館「宝来館」の敷地に海に向かって建立された。その報告の電話だった。この作品を発売して九年目の出来事だった。

●あなたの帰りを

待っている

変わらぬ心が

ここにある

二〇一三年に他界した島倉千代子は生前、この『おかえりなさい』を被災地に行って、被災された人たちの前で歌いたい。

特に今も尚、行方が判らない多くの人に語りかけたいと願っていた。少しでも力になりたい…。

その願いは叶わなかったが、島倉千代子のこの思いを、関西のファンクラブの人々が中心になって受け継いだ。

歌碑建立計画が始まった。彼女の願いは歌碑に姿を変え、実現に向け動き出した。

歌碑建立に必要な資金集めの呼びかけに多くの島倉ファンが賛同した。

その善意の輪は被災地に広がり、それを聞いて歌碑建立に必要な場所を快く提供してくれた「宝来館」の女将をはじめ、地元の多くのファンの協力を得て願いは叶った。

長年島倉千代子と共に歩いて来た人たちの思いが結集したこの歌碑の除幕式が二〇一六年三月三十日に行われた。島倉千代子の誕生日である。実に心温まるいい話である。

私と作詞の友利はコロムビアの担当者に引率され釜石に行くことになった。

除幕式には島倉千代子のファンが全国から続々と集まって来た。

島倉千代子の『おかえりなさい』の歌碑はその日から、今尚、故郷釜石に戻れない多くの人達に「あなたの帰りを待ち続けています」と海に向かって呼びかけ続けることになった。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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