【第28回】島倉千代子とのエピソード②「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.4.19

島倉千代子から突然の電話

美空ひばりを“お嬢さん”、島倉千代子を“看板”と私は呼んでいた。

その看板から二〇〇七年年明け早々久しぶりの電話が入った。

「ボス(島倉さんは私のことをこう呼んでいた)元気?私も年だし、コロムビアと相談して今年出す新曲を最後の作品にしたいのよ」

「看板!新年早々の冗談なら明るいやつをお願いしますよ」

「冗談で言ってるんじゃないの。そこで相談なんだけどその最後の作品、ボスが作ってよ」

そうか!島倉さんも今年古希か!本気なんだと思った。

「わかりました。けど私には難しい歌は作れませんよ。何か要望はありますか?」

「要望なんか何も無いよ。ボスは私のことよく知っているでしょ。任せるわ」

そんなやり取りから作品作りが始まった。

その年、二〇〇七年はご承知のように団塊世代の人々が大量に定年を迎えた年である。団塊世代は何処へ向かうのか…新聞紙上をそんな記事が賑わせていた頃、私も作家仲間とこのテーマで歌作りをしていた。

団塊世代の第二の人生にエールを送ろうと勉強を兼ねて、様々な作品に取り組んでいた。『還らざる日々』『蒼春』など良い作品が出来ていた。

そんなタイミングで島倉さんから制作依頼が飛び込んできた。よし!島倉さんにも団塊世代にエールを送ってもらおう。作家と相談して出来たのが『おかえりなさい』だった。作品は好評で島倉さんも喜んでくれた。

余談になるがデモ音源が出来、作家を同伴して島倉さんの青山のお宅を訪ねた時のこと。

「ボス、この歌を歌う時のイメージは?」

と私に質問が来た。

「そうですね。長いお勤めご苦労様でした。愛する人に優しく、おかえりなさいと語りかけてください」

と言ったら

「えっ?この歌、刑務所の歌なの?」

私の説明の長いお勤めを刑務所のお勤めと勘違いしたらしい。

「看板、何言ってるんですか!サラリーマンの定年退職の話ですよ」

ハハハ…と島倉さんも大笑いしていた。天然なところもあったが、一事が万事、実直な人だった。

特に歌に関しては制作者の思いを大事に大事に表現する超一流の職人だった。

あの時の歌がこんなに遠い三陸の地で九年の時を経て息づいている。しかも人のお役にたっている。制作者冥利、感無量だった。

私は歌碑の除幕式前日、コロムビアの後輩に引率され釜石に向かった。震災から五年が過ぎていた。

東北新幹線新花巻駅でレンタカーを借り、コロムビアの渡辺部長が運転した。後輩との旅は久しぶりで先輩気分も悪くなかった。

「ナベちゃん!しっかり運転しろよ。某大手プロダクションの社長が運転の上手いやつは仕事も出来るといつも言っているぞ」

お山の大将気分、先輩風を吹かし過ぎの道中だったが、目的地釜石は想像以上に遠かった。

私の好きな田舎の原風景を今も色濃く残す遠野がまだ中間地点だった。釜石に着いた時には日が傾いていた。

三年後のラグビーワールドカップの会場予定地鵜住居地区に目的の宝来館はあり、私達はそこに向かった。

トンネルを抜けると海が見えた。綺麗な三陸の海が夕陽を浴び、キラキラと光っている。そんな光景に見とれていたら、突然私達の行く手に広大な工事現場が広がって来た。渡辺が運転する車はその工事現場の中を走り始めた。

―三百メートル先を右折です

―間もなく右折です

―右折です

「ナベちゃん!カーナビが右折しろと言ってるぞ」

「右折って言っても道が無いっすよ」

渡辺は焦りながら道を探しているが何処にも道は無い。あるのは高く盛られた土とその上で煙を吐いて唸っている土木工事用の重機だけだった。又、ナビの指示が出た。

―次の角を左折です

「このナビおかしいですよ。左折も道が無いっすよ」

私はハッとした。ナビがおかしいのではなく、五年前には、ナビが言っているように此処に道があったんだろう。

潮の香りのする町並みもあったはずだ。私は自分が今、被災地のど真ん中に居ることを強く実感した。

ナビの声は虚しく私の心に響き始めた。いたる所に不自然に盛土された空地を眺めていると、ふっと復興とはこの景色のことを言っているのか?

この入り江の綺麗な土地に草が生え、木が茂り、人の営みが戻って来るのに何年かかるだろうか…。

私はふと、遠く離れた緑豊かな自分の故郷を思い出した。

私達はナビを頼らず目的地、根浜海岸の宝来館にやっと着いた。

玄関の大漁旗と女将の笑顔が私達を迎えてくれた。気丈にふるまう女将は震災当日、大津波を背に身体を張って多くの人々を旅館の裏山に誘導し、尊い人命を救った岩崎昭子さんそのひとだった。

だが元気に場を捌く女将の一瞬見せる寂しい背中が震災で受けた心の傷の深さを物語っているように思えた。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

関連キーワード

この特集の別の記事を読む