【第29回】島倉千代子とのエピソード③「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」
ヒット曲『鳳仙花』で初めてのキャンペーン
十四メートルの大津波に襲われた宝来館に、歌碑の除幕式前日、全国からファンの人達が集まっていた。私達一行もファンクラブの人達と合流し夕食会に参加した。
出席者全員の自己紹介が始まった。名前を言うだけの人もいたが、多くの人が島倉ファンになってからのキャリアを紹介した。”共に生きる“という言葉に相応しい人たちだった。
それに比べ私が島倉さんと仕事で付き合った期間など、吹けば飛ぶようなものに思え、上座に座っているのが恥ずかしかった。
いよいよ地元協力者の自己紹介になった。
「あの日妻が…」
「未だに義母が…」
サラッと話しているが、それを聞いて私は胸がつまった。なんと強い人達だろうか…。
島倉千代子はこんなに人間味溢れるファンの人達に支えられていたのか。叶うことならここに集っているファンの人達のための作品を作りたい衝動に駆られた。
あれは昭和五十五年、私が制作部に行って始めたディレクター競作の第二弾を島倉千代子に決め、従来からの担当制を無くし、ディレクター全員の知恵で島倉千代子の新曲制作に挑んだ。
結果、『鳳仙花』が生まれた。競作は吉岡治、市川昭介のゴールデンコンビに軍配が上った。そして久々のヒットになった。
この歌の冒頭
〽やっぱり器用に生きられないね…
は島倉千代子の生き様にピタッと来た。間違いなく売れると思った。
ディレクター競作第一弾の美空ひばり『おまえに惚れた』のときはひばりさん自身がデビュー以来初めての新曲キャンペーンを大阪で行い大成功した。
島倉千代子も柳の下の二匹目のどじょうを狙って、これも初めての新曲キャンペーンを行った。私も同行したが、確か船橋のショッピングセンター屋上の駐車場だったと思う。
寒い日だった。ビール瓶を入れるプラスチックの箱の上に着物姿で島倉さんは立った。初体験の緊張のためか、島倉さんは小刻みに震えていた。。超の付くベテランの彼女だが本番前はいつも緊張して第一歩がなかなか踏み出せない。いつも誰かに背中を押されていた。この性格は本人も自覚していて
「何年経ってもこれだけは少しも変わらないのよね」
と苦笑いしていた。
又、新曲のテレビ収録の時などは、手のひらに歌詞の大切な部分をマジックペンで書いていた。私には単に自信を付けるための暗示にしか思えなかったが、本人は大真面目だった。
このことで一度大慌てしたことがあった。当時NHKで放送されていた日本作詞大賞に『人生いろいろ』がノミネートされ、大阪城ホールでの公開生放送に出演した時のこと。島倉さんはいつものように手のひらに書いた歌詞を舞台の袖で見ながらブツブツ言って出番を待っていた。緊張しているのがよく解る。出番が来た。
「看板!今日は新曲のプロモーションですよ。賞を獲ろうなんて考えず思い切り歌って下さい」 私が言い、事務所社長に背中をポーンと叩かれやっとステージに出て行った。
一旦、ステージに立ち、ライトを浴びるとさすが超ベテラン、大スター!お客をグイグイ引っ張って行く。上手く行った。
「看板!客席の反応は最高ですよ」
と私は親指を立てた。
「あーよかった」
島倉さんは歌い終わりホッとしたのか楽屋へ帰り、例の手のひらに書いていた歌詞をきれいに洗い落してしまっていた。
この時、まさか作詞大賞に選ばれるとは本人も私達スタッフも思っていなかったので呑気に構えていた。
そんな私達のところに
NHKのスタッフが飛び込んで来た。
「おめでとうございます。今年の作詞大賞は『人生いろいろ』に決まりました。アンコールの準備お願いします」
「看板!おめでとうございます。良かったですね」
スタッフの盛り上がりにも、なぜか浮かぬ顔をしている。
「どうしよう!手のひらの詞は消しちゃった…」
いつもの心配が始まった。生放送では打つ手がない。
「どうしよう!どうしよう!」
焦っている島倉さんに
「看板!仕方ないでしょ。もし緊張して詞が出て来なかったら嬉し泣きでもしますか」
私の一言にキリッと私を睨みつけ
「そんなみっともないこと出来ない!!」
プロ魂に火がついた。結果、見事に歌い切った。会場の拍手は鳴り止まなかった。
そんなエピソードがあった『人生いろいろ』はよく売れた。中山大三郎、浜口庫之助両先生が、島倉千代子の新たな一面を引きだした傑作になった。
のちにコロッケさんが島倉さんの歌のポーズを真似したことも大効果になり、社会に大きな影響を与える大ヒットになった。
---つづく
著者略歴
境弘邦
1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。