【第30回】島倉千代子とのエピソード④「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.4.23

島倉さんが作った土手鍋の味

ディレクター競作や初めての新曲キャンペーンが功を奏し『鳳仙花』は久しぶりのヒットになった。喜んだ島倉さんが関係者を当時、代々木にあった自宅マンションに招待して手料理を振舞うことになった。

あの島倉さんが料理をする!信じられないと思ったが一度は結婚し家庭料理を作った経験はあるはずだ。私は島倉さんの料理の腕前に興味を持ち期待した。

島倉さんは張り切って招待当日、早朝から知人に連れられ築地に食材を仕入れに出掛けたと聞き、期待は益々高まった。

吉岡、市川両先生の他に競作に参加したディレクターや録音の担当者も招かれていた。島倉さん自らお手伝いの人と一緒にエプロン姿でキッチンに立っていた。

フグ刺しなど前菜が終わり、メインメニューの鍋が出て来た。

「看板、何んの鍋ですか?」

私が質問したら

「初めての挑戦だけど、土手鍋にしてみた。食材が新しいからきっと美味しいと思うの」

「ハァー土手鍋ですか」

土手鍋は素人には難しいと思うが大丈夫かな…。

鍋から味噌の香りが漂ってきた。

「お千代さん、食材がどれも新鮮でおいしいですね」

鍋に手をつけた市川先生が誉めると、隣に座っていた吉岡先生がすかさず、

「ウソつけ昭ちゃん!辛くて食えねぇよ」

私は慌ててテーブルの下の吉岡さんの足を蹴った。

「えっ!境ちゃん辛くないの?」

私も市川さんも島倉さんに気遣っていることぐらい解ってほしいと思っていたが、吉岡さんは平気で

「みんなどう?辛くない?」

そして追い打ちをかけるように

「お千代さん、味噌の量が多すぎると思うな」

奇しくも吉岡、市川両先生の性格が丸出しになった。

私はその場の空気を変えねばと焦っていたら、キッチンからお手伝いの人の声が聞こえた。

「看板!お味噌を鍋のまわりに貼りつけましたか?」

「あっ、そうだった!失敗した!忘れて味噌を最初から全部中に入れちゃった」

「それじゃ、吉岡先生の言う通り辛いですよ」

そんな笑いの絶えない島倉千代子の手料理を味わう会になった。

宴もたけなわの頃、両作家の前に座っていた島倉さんが『鳳仙花』の歌談義を始めた。

「この歌を覚えるのに、毎晩お風呂に入って大声で歌っていたら、ついにお隣からクレームが来ちゃった」

どうやら島倉さんは歌のレッスンに風呂場を利用していたようだった。

「最近のマンションは壁が薄くてダメね」

と言って照れていた。プロ歌手なら当たり前だが島倉千代子は新曲を自分のものにするのに異常とも思える情熱を持っていた。

レコーディング前に届く作曲家のデモ音源を聴きながら、歌詞に注意すべき点を赤い字で沢山書き込んでいた。言葉の強弱は勿論、歯切れよくとか、間を取るなど詳細に記されていたが、さすがプロ!行間を埋める気持ちまでも記入され、資料全体が赤く見えた。

また、メロ譜にもビブラートやファルセットの印やリズムの取り方など独自の記号が沢山並んでいてこれほどまで資料を活用する島倉さんに私はいつも脱帽していた。

この学ぶ姿勢は、まさかと思ったが亡くなる直前に制作された作品『からたちの小径』でも同じだった。

体が衰弱しスタジオにも行けず自宅で収録したこの作品は聴くと痛々しいほど細い声で歌っている。この時ばかりはさすがの島倉さんも声を出す以外、余裕はなかったと思っていたが、亡くなった後の遺品整理を手伝うため自宅を訪ねて私は唖然とした。

枕元近くの引き出しから真っ赤に書き込まれた

『からたちの小径』の資料が出て来た。

余命数日と言われて尚、歌の勉強をしていた島倉さんに改めて深い感銘を受けた。

いくつになっても変わらない純真な心の持ち主だった故に、女性として幸せ薄い生涯を送った人に私には思えたが、仕事では数多くを彼女から学ぶことが出来た。

 

昭和六十二年秋、島倉さんから私に手紙が届いた。

島倉さんは達筆で男みたいな力強い特徴のある字を書くのですぐ解る。

長めの手紙だったが要約すると、最近、年が改まるともうその年のNHK紅白の当落が心配で心配で他のことを楽しむ余裕がない。そんな思いをここ何年か味わって来た。自分の年齢も考え、この辺りで後輩に道を譲ることにしたいといった内容で、要は紅白を辞退したいと言って来た。

私は本人の意志を尊重し島倉さんと二人で紅白辞退の記者会見を開いた。

記者の質問に

「今まで紅白と云う特急列車に乗って来たが、これからはお千代という鈍行に乗り換えて新しい自分発見の旅をしたい」

さすが“看板”と言われるベテラン。上手い表現をすると感心したが、その後、大変なことが起こった。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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