【第33回】流浪のサラリーマン時代 営業所編②「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.4.26

神戸大蓄 村上社長と麻雀

「これを持って早く帰りなさい」

私が仕事の合間を利用して神戸元町の大蓄を訪店すると、決まって奥さんが冷蔵庫の中の食料品をビニール袋に小分けして持たせてくれた。貧乏新婚生活を気遣っての優しい配慮に頭が下がった。

ハムがまだ高級食材だった頃なのに、奥さんは塊を半分に切って持たせてくださったこともあった。私にとってはありがたいありがたい帰りのお土産だった。

大蓄本店は間口は狭いが奥行きのある細長い店舗で、一番奥の右側にレジがあり村上社長は店に居る時はいつもそこに座っていた。彼は背が低く猫背だったので、店の入口からはその姿がレジに隠れて見えず、居るのか居ないのか分らなかった。

「こんにちは!社長はいらっしゃいますか?」

店員さんに声をかけると

「おーっ」

と言ってレジの上から顔だけを出す。

「何か用か?」

「毎度!今月の新譜の売れ行きはどうかと思いまして…」

「なに!売れ行き?しょうもないもんばかり出しやがって。売れる訳ないやろ!」

とにかく口が悪いし、小さい身体を反らして威張っていた。

この小さな大社長は婿養子だと聞いていたが、そのせいか、あれだけ威張ってやんちゃな彼が奥さんにだけは何故か全く頭が上がらなかった。

いつもそうだったが、私が訪店するとしばらく私に毒舌を浴びせた後、店舗奥の事務所に居る奥さんに聞こえるように

「相談って何や?またしょうもないことやろ!」

「はぁ?」

「ここでは話せんのか…しゃあないな!忙しいけど外に出るか!」

そう言うと社長は奥の事務所に向かって叫んだ。

「おーい!ちょっと出て来るぞ」

彼の一人芝居が何とも幼稚で面白い。私もこの芝居に乗って

「奥さん!お忙しいところすみませんが、社長に相談がありますのでちょっとお借りします」

「どうぞっ!」

やけ気味な奥さんの了解が出ると早々に二人揃って外に出た。

店の横の路地を入り、ちょうど店の真裏あたりの古い建物の二階に喫茶店があった。一旦そこで落ち着き、来客用に置いてある怪しげな週刊誌をパラパラとめくりながらコーヒーを飲んだ。

巷ではフラフープとダッコちゃんが若い人たちの間でブームになっていたが、私達親父族の遊びは何と言っても麻雀が主流だった。

当時村上社長も相当嵌まっていた。顔を合わせると麻雀の打合せをしていた。

「おい!うちの嫁はんが観に行くようなショーのチケットは無いのか!」

「ハイ!来月大阪フェスティバルホールで歌謡ショーがありますが…」

「来月か!今月は無いのか!」

奥さんを芝居や歌謡ショーなど観劇に引っぱり出し、その隙に麻雀の開帳を企てる話し合いである。

私はその為大阪営業所の宣伝担当者から招待用のチケットを入手する役割を担っていた。

村上社長は近くの雀荘や一泊泊まりの温泉旅館、果ては閉店後の店内などところ構わす、寸暇を惜しんで麻雀に熱中していた。

ある日、観劇のため、大阪に出掛けた奥さんが体調を崩して途中から引き返して来た。

その日は運悪く、店の奥の和室の掘りごたつを利用していつもの麻雀仲間と盛り上がっていた。

インターフォンの奥さんの声に社長は麻雀のパイを毛布で包み、慌てて隠したが、我々仲間には隠れるところが無く、咄嗟の判断で掘りごたつに潜り込んだ。

店のシャッターを開けて入って来た奥さんは、冷えた身体を暖めたいと言って掘りごたつに近付いて来た…。万事休す。

だが社長は最後まで粘って奥さんを二階の寝室に誘導し、我々は難を逃れた。そんな大慌てした出来事もあった。

また、神戸に営業所のあった私は会社の昼休みに呼び出され、昼の時間内に決着がつかない時はそのまま中断し、夜続きをやることも度々あった。

神戸ルールと言っていたが、通常のドラに加え、サイコロのゾロ目が出たら、ドラが増えたし、他にイーピン、赤ウーピン、赤ウーソが常にドラで、どんな手で上がっても、先ず萬貫になっていた。品格の欠片もないが、勝負は早く、すぐハコになった。

私はよく負けた。貧乏新婚の私には負けても支払い能力は無く、その都度、神戸レコード商業組合にだけ通用する麻雀手形を切らされていた。

私が発行する手形はたびたび不渡りで信用されなくなり、いつも神戸新開地にある砂川レコード店の砂川盛彦社長に手形の裏書きをお願いしていた。

私は神戸に居た五年間で砂川社長に麻雀の尻拭いでどれだけ迷惑をかけたか…。返しきれない恩になった。

洋楽中心の大蓄に比べ、砂川レコード店は演歌の専門店で、社長自ら接客し、良いと思ったものを推奨販売して売り上げを伸ばしていた。

後年、私が演歌のプロデューサーとして働いて来られたのは、この砂川さんとの出逢いが原点だったように思う。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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