【第36回】流浪のサラリーマン時代 営業所編⑤「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」

2019.5.1

演歌の神様は販売の神様でもあった

神戸新開地の砂川レコード店の三軒隣りに古い喫茶店があった。

時代を感じさせるこの喫茶店の一番奥が砂川の親父さんの指定席だった。

この席に座ると短くて一時間、長い時は三時間ぐらい喋っていた。

店の主人も心得たもので二杯目のコーヒーからは極端に薄くいれてくれた。

その日は席に着くなり唐突に

「大型のステレオを一台、貸し出してくれへんか?」

「ハイ!電機の営業と相談しますが、どうするのですか?」

「店の前に置いて大正琴のLPを掛けようと思っている。コロムビアの今月の新譜の中に古賀メロディを大正琴で演奏したLPがある。なかなか良い企画だと思うがこのままでは売れへん。試しに店の外で流してみようと思っている。勿論、ステレオも欲しいお客には売らしてもらいまっせ」

すごいアイデアを提案して来た。レコードと大正琴と関連商品(譜面等)を売るための店頭演奏の企画だった。

これまでも時間、客層に合わせ店内の音を替える必要性を力説していたが、今度は店の外で流すと言う。

早速、当時最高級品のセパレート型の大型ステレオを貸し出した。

その日から新開地商店街に大正琴の独特な音色が流れ、砂川レコード店の前を行き交う人の足が止まり始めた。

大正琴のLPは飛ぶように売れた。大正琴も関連商品も、そしてステレオも沢山売れた。

神戸では他の商店街でも砂川レコード店を真似て大正琴の店頭演奏をする店が増え、ちょっとしたブームになった。演歌の神様は販売の神様でもあった。

砂川の親父さんは演歌だけではなかった。

当時私が好んで通った先のひとつに、神戸須磨海岸のラジオ関西があった。

その頃のラジ関の建物は米軍キャンプによく見られたかまぼこハウスで、中庭に売店や床屋などがあり私はよくここを利用した。番組のプロデューサーの名前を借りると値引きもあったので、その目的で出掛けたこともあった。

このラジ関の看板番組に月曜日から金曜日、夜七時から九時までのゴールデンタイムに放送される電話リクエストの帯番組があった。

各曜日ごとに担当プロデューサーが代わっていたが、私は水曜日を担当していた西内さんとウマが合った。

当時の地方のラジオ局では深夜放送は無く、毎晩十二時で放送は終わっていた。

西内さんは、既にその深夜の時間帯に目をつけ、番組を企画していた。私もコロムビアには内緒でこの企画を手伝うことにした。

スタートしてしばらくは西内さんと私が好きなカントリーウェスタンをメインにした番組だったが、毎日一時間の放送ではネタが続かず、トークとレコードの構成に切り替えていった。

そんなラジ関の深夜番組で放送された曲の中に、ザ・フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』の音源はあった。

何故ラジ関にこの音源があったのか、その経緯は解らなかったが、私は変な曲だと思って忘れられなかった。

昭和三十年代後半から四十年代にかけたこの頃の日本は、労働組合の活動が活発で頭に赤い鉢巻をして、スクラムを組む様子がよくテレビで見られた。

ラジオ関西も例外ではなく、その年の春闘は激しく、ついにストが決行された。番組の制作現場も勿論ストに入り、人手不足になった。

一番の問題はこの局の看板番組、電話リクエストを止める訳にはいかないことだった。生番組だけに人手の補充は不可欠だった。

この事態に私は日頃親しくお付き合いしていた西内さんの手伝いをすることになった。

私のやることは主にリスナーからのリクエスト曲をレコード室からピックアップし、コメントを添え準備する手伝いだった。

やり始めてすぐに私は面白くなり、この機会に日頃頭の片隅に引っ掛かって気になっていた『帰って来たヨッパライ』をこの番組で放送してみようと思いつき、勝手にコメントを作って放送した。

曲が流れた後、リクエスト受信専用の電話が一斉に鳴り、ラジ関のスタジオはパニックになった。『帰ってきたヨッパライ』の問い合わせとリクエストだった。

このことが当時のラジ関の局長にバレて、私は局への出入りを禁止される処分を受けた。

それでも私は懲りなかった。早速、担当の西内さんに相談し、『帰ってきたヨッパライ』をコロムビアから発売したい旨を伝え、音源を預り会社に持ち帰った。

私はコロムビア本社の関係部署全てにこの曲の売り込みをかけたが、当時のコロムビアは変な老舗のプライドがあったのか…。制作部をはじめ各部署からこれは音楽ではないという理由で断られた。

だがこの事態に砂川の親父さんだけは素早く反応した。

---つづく

著者略歴

境弘邦

1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。

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