【第37回】流浪のサラリーマン時代 営業所編⑥「境弘邦 あの日あの頃~昼行灯の恥っ書き~」
砂川の親父さんと『帰って来たヨッパライ』
「儲かったら山分けやでぇ!」
『帰って来たヨッパライ』の発売をコロムビアが断ったと知った砂川の親父さんは、自ら発売することを申し出た。
当時西宮に在ったマーキュリーレコードの工場を仮押さえすると、当面の資金として四百万円を準備して私のところにやって来た。
「久しぶりやな!歌を聴いて鳥肌がたったのは。これ、売れまっせ!」
「だけどこれ演歌と違いますよ」
「境さん、わし、この商売何年やってると思いますねん」
言われてみれば販売のプロに違いない。
私は砂川さんの計画を実行に移すべく、ラジオ関西の西内さんに関係者への許諾の要請をお願いした。
よし!やれる!具体的な作業に入った頃、私の上司の営業所長にバレてしまい、ひどく叱られた。
「どうしても砂川さんと組んでやると言うのなら会社を辞めてからにしてくれ」
所長はそう言った。
悩んだ…。恩人鎌田営業部長やこれまでお世話になった多くの人々の恩を仇で返すことになるし、
私はコロムビアのセールスマンになる夢をまだ果たせていない。
判断に迷ったが
「おまえはコツコツ人の倍、働くしか道はない」
と、いつもの父の声が聴こえた気がした。
同時に販売の神様でもある砂川の親父さんの
「絶対儲かる!」
と言う言葉が耳から離れなかったが、結婚したばかりの貧乏サラリーマンの私は生活の安定を選んだ。諦めるしかなかった。
未練たらしくしばらくの間、音源を手元で保管していたが
「あなたもコロムビアもダメなら、あの曲を欲しいと言ってきてる人がいる」
西内さんから連絡があった。
「交渉を進めたいので音源と資料を返してほしい」
そう言われ、私には拒否する権利はなく、音源は私の手元から離れて行った。
その後、ザ・フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』は京都のハタさんと言う人を経由し、当時の東芝音楽工業の高島さんに渡った。
そして、その年の暮れに発売されると爆発的な大ヒットになった。
神戸三宮商店街の地下にあった星電社では『帰って来たヨッパライ』を求めて、客の長い行列が出来ていた。
逃した魚は大きかった。
私と砂川の親父さんにとっては残念で淋しい年の瀬となった。
人に頼られる親分肌の親父さんに比べ、奥さんと娘さんは見るからに優しく、心の温かい人達だった。二人ともいつも微笑みを絶やさず、会うと私の気持ちを豊かにしてくれた。
元町の大蓄の奥さん同様、砂川さんの奥さんも店を訪ねる毎に食料品を分けてくれた。特にお茶に関しては、親父さんがうるさかったのか、頂いたお茶っ葉は上等で美味しかった。
そんな明るく幸せな砂川さんの家族に不幸が忍び寄って来た。
話し好きで一時間でも、二時間でも演歌を語っていた親父さんが、咽頭癌の大手術を受け、声を失った。
回復後はメモ用紙に筆談で目に涙を浮かべ、演歌の将来を語っていた。
〝演歌は生きるための肥やしや〟
〝人の気持ちのわかるディレクターを育てなあかん〟
足元に筆談に使ったメモ用紙が何枚も何枚も落ちていた。
「親父さん、心配するな!俺、頑張るよ」
私の言葉に頷き、メモをもどかしく書いていた手が止まり、私の手を固く握って来た。
無念でならない。演歌を語るため、毎日利用していた隣の古い喫茶店はまだあったが、親父さんとそこに行くことはもうなかった。
一九九五年一月十七日の阪神淡路大震災は神戸新開地の砂川レコード店を一瞬にしてがれきの山にしてしまった。
賑やかだった商店街は跡形もなく、道は曲がり、どこに店があったのかも分らないくらいの惨状だった。
幸いにも親父さんのご家族は無事で、六甲山の麓のアパートの一室を借り、避難されていた。
少し落ち着きを取り戻した頃、私は見舞いに行った。その時既に親父さんは店の再建を計画していた。新開地の同じ場所での再開だったが莫大な資金が必要だった。
私は積年の恩に報いるため店の再開を手伝おうと決心した。
大阪で私の弟が店舗設計施工の会社を経営していたので、そこに頭を下げ、砂川さんには材料費だけを負担頂き、店舗を作らせて頂いた。
店は再開できたが、その後家族に不幸が続いた。
砂川さんはお嬢さんに続き、奥さんを亡くされた。神の加護は無いのか…。
私はその都度、葬儀に参列したが、声を失くし、喪服姿のやつれた親父さんに掛ける言葉がみつからなかった。
間もなく親父さんは奥さんの後を追うように亡くなった。
演歌不振の今、
「客を知れ!」
演歌の神様はあの世で叱咤している気がする。
---つづく
著者略歴
境弘邦
1937年3月21日生まれ、熊本出身。
1959年日本コロムビア入社、北九州・横浜・東京の各営業所長を経て、制作本部第一企画グループプロデューサー、第一制作部長、宣伝部長を歴任。
1978~89年までは美空ひばりの総合プロデューサーとして活躍する一方、数多くのミリオンヒットを飛ばし、演歌・歌謡曲の黄金時代を築く。
1992年日本コロムビア退社、ボス、サイド・ビーを設立。
門倉有希、一葉の育成に当たると同時に、プロデューサーとして長山洋子の制作全般を担当。
2008年ミュージックグリッド代表取締役社長、2015年代表取締役相談役。